【第四章:山川聖香(2)】

田畑太一郎の留学先りゅうがくさきであるH大学は、アメリカの中でも著名ちょめいな大学であり、日本人の間でも知名度ちめいどは高かった。田畑太一郎は、自分が留学する大学がH大学になると決まったとき、まさか自分があのH大学に留学できるなんて、と信じられない思いだった。


だが実際じっさいには、H大学には関連かんれん病院びょういんがいくつもあり、田畑太一郎が留学した研究室は、その関連病院の中の一つの建物たてものないにあるものであった。また、田畑太一郎のボスとなる留学先の研究室のボスはアジア人で、総勢そうぜい十名ほどからなるそこの研究室には、アメリカ人はおろか白人も一人もおらず、全員がアジアもしくは東南とうなんアジアからの留学生であった。


だが、そこの研究室にいる日本人は田畑太一郎だけだったので、他の研究室メンバーとの会話かいわは英語であった。しかし、研究室内ではたいていは同じ国の出身者しゅっしんしゃ同士どうしかたまり、その場合は、彼ら彼女らは自分達の母国語ぼこくごしゃべっていたので、田畑太一郎は研究室の中では英語よりも別の国の言語げんごを聞く時間の方が長かった。


また、ボスは研究室にいないことが多く、どちらかと言えば放任ほうにん主義しゅぎであった。そのためか、平日へいじつ昼間ひるまに田畑太一郎が研究室にいなくても、それをとがめられることはなかった。


おもえがいていた留学りゅうがく生活せいかつとは違うな、と田畑太一郎はそう思うことはあったが、れてみると、この自由で気楽きらく研究けんきゅう生活せいかつも悪くないものだという気がしてきた。


田畑太一郎の研究プロジェクトは、日本のボスとアメリカのボスが話し合って決めたものであり、名目上めいもくじょう日米にちべいの研究室の共同研究きょうどうけんきゅうという形になる。


また、実際じっさいには田畑太一郎の留学先はH大学の関連病院の中にあるものだが、そこの研究室のメンバーは、田畑太一郎を含めて全員がH大学と関連病院のどちらにも在籍ざいせきしていることになっているため、日本のボスにとっては、天下のH大学と共同研究きょうどうけんきゅうをしていると言うことができた。


この日も、田畑太一郎が平日の日中に研究室にいなかったことを気にしていた研究室メンバーはおらず、渡邉哲郎と別れて研究室に戻ってきたときも、誰にも何も言われなかった。この日は、めずらしくボスが研究室内の自分のオフィスにいたが、彼も田畑太一郎が不在ふざいであったことには気づいていない様子で、研究室メンバー数人と彼らの研究プロジェクトについてオフィスの中で議論ぎろんをしていた。


研究室にもどってきたあと、田畑太一郎は自分のデスクにすわりメールをチェックした。対応たいおう必要ひつようなメールはとくになかったので、白衣はくいて実験を再開さいかいすることにした。まずは、共用スペースにあるシェーカーの上に乗せておいたプラスチックの入れ物を自分の実験机じっけんづくえに持ってくるところから始めた。


この入れ物の中には、スキムミルクにひたしたウエスタンブロットのメンブレンが入っている。そのスキムミルクを実験机の横にあるながしにてて、わりにTBS-Tという溶液ようえきを入れた。


その後に、昨夜さくやから一次いちじ抗体こうたいひたしておいた別のウエスタンブロットのメンブレンのケースを冷蔵室れいぞうしつから取り出し、一次いちじ抗体こうたい溶液ようえきをファルコンチューブにもどして、そちらの入れ物にもTBS-Tを入れた。そして、どちらのケースも、先ほどのシェーカーの上にもどした。


こういったウエスタンブロットの実験じっけん操作そうさは、教えれば小学生でもできるくらいのシンプルな作業さぎょうだなと、この実験をしているときに田畑太一郎は時々ときどきそのようなことを考える。


では、小学生でも医学生物学の研究ができるのかと言えば、話はそう単純たんじゅんではないことに気づく。確かに、この分野の研究には実験が必要不可欠ひつようふかけつではある。しかし、実験だけしていても、それは研究をしているとは言えない。


研究にはアイデアが必要である。何を研究けんきゅう対象たいしょうとするか、何を明らかにしたいか、そのためにはどんな実験が必要か、そういったことをよく考えて実験じっけん計画けいかくを立てる必要がある。また、その研究を遂行すいこうするための資金しきん獲得かくとくしていかないといけない。そういったことをすべてこなしてはじめて研究けんきゅうをしていると言える。


田畑太一郎が自分のデスクに戻り、論文ろんぶんを読みながらそんなことを考えていると、ピコーンとスマホにテキストメッセージがとどいた音がった。


ポケットから自分のスマホを取り出して画面がめんを見ると、そのメッセージのにんは坂井かなえであった。先週の土曜日にったときに、スマホの番号ばんごう交換こうかんしておいたのだ。


メッセージには、「太一郎君、急な話なんだけど、明日の夕方ゆうがた以降いこうって時間じかんいてたりする?」とあった。田畑太一郎はれた手つきですぐに返信へんしんをする。


「六時以降ならあいています。」


ピコーン。すぐに返信が来た。


「T大学から歩いて十分くらいのところにイタリアンのレストランがあるんだけど、夜ご飯いっしょにどう?ちょっと会ってもらいたい人もいるんだ。」


大丈夫だいじょうぶです!何時くらいに行けばいいですか?」


「六時半でどうかな?そのお店のサイトのリンクはhttps://...です。」


了解りょうかいです!では明日よろしくです。」


「ありがとう!じゃあまた明日。」


坂井かなえからの最後のメッセージには、文章ぶんしょうの終わりに笑顔えがお絵文字えもじがついていた。田畑太一郎は何だか心がかるくなるようなうれしい気持ちになった。


***


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