【第三章:高野恵美子(3)】

会議室は小さかったので、そこに高野恵美子がいないことは誰の目にも明らかだった。


そのときは、坂井かなえたちは何が起きたかわからず混乱こんらんしていたので、守衛しゅえいに言われるままにエレベーター・ホールまで歩き、そしてエレベーターで一階まで降りた。


「ハハハ、研究のしすぎで疲れてたんじゃないのか?ほら、外はいい天気だぞ。それに今年の夏は今年限りだ。遊ばないと後悔こうかいするぞ。ちょっとは遊びに出たらどうだ?」


と、西棟一階に坂井かなえたちが到着とうちゃくしたとき、守衛が坂井かなえたち三人に向かって笑いながらそう言って、そのままセキュリティー・デスクの奥にある小さな守衛室に引っ込んでいった。そして、真中しずえと田畑太一郎は、坂井かなえに続く形で、西棟の入り口を通って外にでた。夏の日差しが容赦ようしゃなく三人をおそった。


「何がどうなってるんだか・・・」と、日差ひざしから目を守るように手をおでこのところに持っていきながら、田畑太一郎は誰に話しかけるでもなく、そう言葉を発した。


「えっと・・・、うたがうわけではないんだけど、太一郎君はカギしめなかったんだよね、あのとき」と、坂井かなえは田畑太一郎に問いかける。


「えぇ、はい。ドアを閉めたあとも、ドアノブは普通に回っていたので、カギはかかっていないと思います。ドアって普通はカギがかかっていたら、ドアノブは回らないですよね。」

「うん、そう思うよ。だって、さっき守衛さんと一緒に行ったときはドアノブは回らなかったもの。」

「ですよね。誰がカギをかけたんでしょうか。」

「あそこのエレベーターは遅いとは言っても、下に行って守衛さんと戻ってくるまでは十分もなかったはずよね。」


真中しずえが自分の腕時計を見ながら、「今は二時二十分すぎなので、たしかにそんな感じですね」と、坂井かなえの考えに同調した。


「十分か・・・。まあ、死体を移動してカギをかけるだけだから、絶対に不可能というわけでもないか・・・。あのとき犯人が近くにいたりしたのかな」と、田畑太一郎が自分の考えをまとめるかのようにつぶやいた。


「犯人・・・。」


その言葉を口にした真中しずえの顔色は、たおれていた高野恵美子を発見したときと同じように青白くなっていた。


真中しずえは『夏休み別荘事件』の生存者である。彼女はその犯人を見たわけではないが、そのときに何が起きたかは当然知っている。


その犯人は真中しずえのクラスメート一人を殺害さつがいし、彼女の大親友であった『空木カンナ(うつぎ・かんな)』と引率いんそつの先生一人を連れ去って行方がわからなくなっている。空木カンナおよびその先生は今も消息しょうそく不明ふめいであるが、すでに殺されているのではないかという見方が大勢たいせいめていた。


いつも明るく、誰とでもへだてなく接する真中しずえであったが、この事件は真中しずえの心の内面に修復不能しゅうふくふのうなほどの傷をつけた。二十歳はたちも過ぎた今も、事件を連想れんそうするような何かを見聞きするだけで、心臓の鼓動こどうがはやくなり、血の気がひいて気を失いそうになることがある。いわゆる心的外傷(トラウマ)という症状だ。このときも、『犯人』という単語に真中しずえは反応し、失神しっしんしそうな状態になってしまった。


「しずえちゃん、大丈夫?」


坂井かなえは、真中しずえの両肩りょうかたを支えるようにおさえて、そう聞いた。


「え?あ、だ、大丈夫です。すみません。ちょっとボーっとしちゃって。」

「よかった。なんか急に顔色が真っ白になったからビックリしちゃったよ。気を失ってたおれるかと思った。」

「すみません・・・。」

「どうしたの?」

「いや、犯人って言葉を聞いて、ちょっと怖くなっちゃって。」


と真中しずえが言ったところで、坂井かなえは田畑太一郎の方を向いて、「太一郎君、しずえちゃんをこわがらせるようなことを言っちゃダメだよ」と少し強い口調で言った。


「え、あ、すみません・・・。そんなつもりはなくて・・・」と、急に強い口調でしかられたので、田畑太一郎は少し戸惑とまどいながらそう答えた。


「かなえさん、田畑君は悪くないです。私が勝手に怖がっただけで・・・」と真中しずえが言うと、「なんちゃって。太一郎君ごめんね。びっくりした?」と、普段どおりの坂井かなえの表情と口調に戻った。


「え・・・?」と、坂井かなえの変貌へんぼうぶりに、田畑太一郎はついていけずに混乱こんらんしていたが、坂井かなえは田畑太一郎がこまっている様子にはれずに二人に対して話しかけた。


「私もだけど、二人とも少し落ち着こうか。もしかしたら、守衛さんが言っていたように、私たちがそろって何かを見間違みまちがえただけかもしれないし、仮に本当に高野さんがあそこで倒れていたとしても、死んでいたとは限らないよね。もしかしたら、さっきのしずえちゃんみたいな感じに一瞬だけ気を失って倒れてしまっていて、私たちが会議室を出たあとに意識いしきもどったのかもしれないから。」


真中しずえは、あそこで倒れていた人間が生きていたとは信じられなかったが、坂井かなえがそう言っているのは、自分を元気づけるためだということに気がついたので、えて何も言わなかった。


一方で、田畑太一郎は、倒れていた人間の表情を自分の目で直接は確認していなかったので、坂井かなえが言う可能性もあるのかなと思い、「そうかもしれないですね。まだ情報じょうほうがあまりない現段階げんだんかいでは、あまり決めつけない方がいいかもしれないですね」と、坂井かなえの発言をサポートするような内容のことを言った。


「とりあえず今日はここで解散かいさんしようか。しずえちゃんはお家に帰ってゆっくり休んでね」と坂井かなえが言うと、真中しずえは「はい」と、表情はかたいままであったが、無理やり作った笑顔を顔に浮かべてそう答えた。


そして、「太一郎君?」と坂井かなえにびかけられた田畑太一郎は、「は、はい」と少し改まった口調で答えた。坂井かなえにまたきびしいことを言われるかもと、ちょっと警戒けいかいしたからだ。


しかし、その予想とは異なり、坂井かなえは可愛らしい笑顔で「申し訳ないけど、今日の座談会が中止になっちゃったこと、例のWebサイトの会社に伝えてくれる?ごめんね、大変な役割やくわりを押し付けちゃって」と、両手の手のひらを顔の前で合わせながら、田畑太一郎にお願いをした。


「あ、もちろんですよ。かなえさんも今日は大変だったと思うのでゆっくり休んでください」と、坂井かなえをおこらせたわけじゃなかったと安心した田畑太一郎が、少しうれしそうな表情になり答えると、「そうね。もう一回だけ研究室をのぞいてから私も帰るわ。念のため、高野さんにメールとテキストもしておくね」と返事をした。


そして、その日はその場で解散かいさんとなり、坂井かなえは東棟に向かって歩き、田畑太一郎と真中しずえは、地下鉄ちかてつえきまで一緒に歩いて行って、そこで別れて各々おのおのの家の最寄駅もよりえき停車ていしゃする電車が出るホームへと向かった。


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