【第二章:坂井かなえ(1)】

八月最後の土曜日、田畑太一郎(たばた・たいちろう)は、真中しずえ(まなか・しずえ)と一緒にタイ料理レストランでお昼ご飯を食べていた。その日の午後に『座談会』をすることになっていて、そのための打ち合わせを二人でしようということになっていたのだ。


パッタイとトムヤムクンを注文ちゅうもんした田畑太一郎は、「真中さん、ここには初めて来た?」と、最初に運ばれてきたトムヤムクンのスープをスプーンで口に運びながら真中しずえに聞いた。真中しずえも田畑太一郎と同じものを注文したので、彼女の前にもトムヤムクンが置かれていた。


「はい。このお店には初めて来ました。というか、私、タイ料理のレストランに来たの初めてなんです。」

「あ、そうなの?まあ、日本にはタイ料理屋さんってあんまりないもんね。俺もタイ料理を食べたのはアメリカに来てからだよ。」

「そうなんですね。あ、このスープおいしい。ちょっとからいけど、それがいい味を出してますね。」

「でしょ。この辛さがクセになるよね。俺、アメリカの料理って全体的にまずいなと思ったんだけど、タイ料理はありだなって思ってるんだ。」

「このお店よく来るんですか?」

「いや〜、そんなには来れないんだよね。日本の基準きじゅんからいくと、ここの料理の値段ねだんって全体的に高いじゃん。やっぱ学生の身だときびしいんだ。こんなことを言うのはちょっとずかしいんだけどね。」

「いえいえ、そんなことないですよ。私もこっちのレストランの値段ねだんって高いなって思ってます。大学入ってからアルバイトでめたお金、この2ヶ月で全部使っちゃいました。それでも全然ぜんぜん赤字あかじなので、親にたのんで出してもらってるんです。」


笑顔えがおでこういうことを堂々どうどうと言える彼女はきっと裏表うらおもてのない良い子なんだな、と田畑太一郎は思った。そして、トムヤムクンのスープに入っていたエビを口にいれながら、彼女のこういった姿勢しせいが、親からだけではなく、まわりの色々な人からの助けをみ、これまでの彼女の様々さまざまなサイエンス活動かつどう受賞じゅしょうつながったんだろうと想像そうぞうした。


奨学金しょうがくきんとかはもらってる?」と、口から少しでたエビの尻尾しっぽを指でりながら田畑太一郎は聞いた。


少額しょうがくのはもらってます。月に六万円とかです。」

「今の為替かわせだと五百ドルくらいか。それだと住居費じゅうきょひにもならないよね。」

「ないよりは全然マシです!というより、奨学金しょうがくきんがもらえるだけでもありがたいです。こうやってアメリカに来て、最先端さいせんたんの研究にれられるのってすごい貴重きちょう経験けいけんですし。」


そのような他愛たあいのない会話をしていると、メインの料理であるパッタイが二人のところに運ばれてきた。


「わ、結構けっこうボリュームがありますね」と真中しずえが言うと、タイ料理レストランに来るといつもパッタイを注文すると言っていた田畑太一郎は、「俺も最初はそう感じたけど、今はれちゃった。日本に帰ったら逆にレストランの料理のボリュームが少なくて驚いちゃうかも」と返事をし、パッタイにえられていたライムをしぼってから食べ始めた。それを見た真中しずえも、田畑太一郎にしたがって同じような動作どうさでライムをしぼり、運ばれてきた料理を口に運んだ。


「そういえば・・・」と、パッタイを口にいれたまま田畑太一郎が話しはじめる。


「今日会う二人の研究者ってどんな人?坂井かなえさんと高野恵美子さん、だっけ。簡単かんたん経歴けいれきはメールで教えてもらったけど、真中さんとはどういった関係の知り合い?」

「えっと、坂井かなえさんとはこれまでに4回、いや5回ですね、お会いしたことがあるんです。こちらに来て最初に参加した日本人研究者の食事会でたまたまとなりだったんです。年下の私が言うのもおかしいんですけど、とっても可愛かわいらしくて元気いっぱいな魅力的みりょくてきな女性です。で、彼女とはすぐにけて、それからお茶したりご飯にいったりしてるんです。テキストなんかでもよくやり取りしてます。」

「そうなんだ。坂井さんって今日これから行くT大学でポスドクしてるんだよね。たしか、博士号はかせごうを取ってすぐに留学りゅうがくして、今は二年目だっけ?」

「そうです。この間お会いしたときは、アメリカで自分の研究室けんきゅうしつを持ちたいって言ってました。」

「こっちで自分の研究室を持つのって大変なんだよね。」

「ですね。と言っても、私は具体的ぐたいてきにどう大変か知らないんですけど・・・。」


「いや、俺もよく知らないんだけどね」とトムヤムクンのスープを口に運びながら、田畑太一郎は苦笑にがわらいをする。


「でも、かなえさん、あ、坂井さんは、日本だと女性が自分の研究室を持つようになるのはまだまだむずかしいと言っていて、それならいっそのことアメリカでトライしようかなって言ってるんです。アメリカだと女性がボスの研究室って全然ぜんぜんめずらしくないようなので。」

「なるほど、たしかにそうかも。ところで、真中さんは、坂井さんのことを『かなえさん』って下の名前で呼んでるの?」

「ええ。こっちって年齢ねんれい関係かんけいなくファーストネームで呼び合うじゃないですか。でも、さすがに日本人同士だと年上の方のファーストネームをてにするのはどうかなって思って、なんとなく『かなえさん』って呼ぶようになりました。」

「そっか。で、話をもどすけど、こっちで自分の研究室を持つのって大変なんだよね。」

「そうみたいですね。ポスドクのあいだに、インパクトのある研究論文けんきゅうろんぶん複数ふくすう出さないといけないようなことを言ってました。で、そんな人が今はたくさんいて、自分の研究室を持つための競争きょうそうがますます激化げきかしてるみたいです。競争率きょうそうりつ五百倍とかということもあったりするんですって。」


「五百倍!?」と、おどろいた拍子ひょうしに、トムヤムクンのスープに入っていた唐辛子とうがらし成分せいぶんのど刺激しげきしたらしく、「ゴホゴホ」と田畑太一郎はんだ。


「あ、大丈夫ですか?」

「ごめんごめん。大丈夫。でも、五百倍っていうのはすごいね。今日の座談会でそういう話も聞けるといいね。」

「ですね。私も将来しょうらいはこっちで研究をしてみたいなと思ったりもするので、かなえさんが今日どんなことを話すのかすごく興味きょうみがあるんです。」

「で、もう一人の参加者の高野恵美子さんという人とも何回も会ったの?」

「いえ、高野さんとはメールだけですね。」


坂井かなえ(さかい・かなえ)のときとちがって、苗字みょうじにさんづけか・・・高野恵美子(たかの・えみこ)とはそんなに近い間柄あいだがらではないんだな、と田畑太一郎は思う。


「そうなんだ。たしか、高野さんも坂井さんと同じT大学で研究してるんだよね。」

「はい。でも、二人の年齢ねんれいにはちょっと開きがあるみたいです。かなえさんと違って、高野さんはこちらに来てから七年目みたいですし、留学する前も日本でポスドクをしてたみたいです。」

「あー、メールでもそんな感じのことを教えてもらったね。じゃあ、今日はことなる年齢層ねんれいそうの女性研究者が三人集まるってことか。どんな座談会になるか楽しみだね。」

「田畑さんは司会ですよね。すごいですね。」

「いやいや。全然すごくないよ。単なるバイトみたいなもんだし。」

「そうですか?今回の座談会が掲載けいさいされるサイトって、ちょっとアングラちっくなところもあってなぞが多いですけど、あのサイトの運営会社うんえいがいしゃって医学生物学系の研究業界のことにすごくくわしいですよね。私、あのサイトを初めてみたとき、あまりの情報じょうほうふかさにおどろいちゃいました。」

「だよね。『え、こんなことまで書いてあるの?』みたいな感じ。」


そう言って笑いながらの会話が進み、二人ともパッタイを残さず食べた。


美味おいしかったです。素敵すてきなレストランを教えてくれてありがとうございます。」

「いえいえ、どういたしまして。あ、そういえば、今日の会計かいけいはその会社が出してくれるって。取材費しゅざいひとして計上けいじょうしていいんだって。」

「え、本当ですか?」

「うん。僕も渡邉さんから聞いたときはビックリしちゃった。」

「わたなべ・・・さん?誰ですか?」

「あ、えっと、あのサイトの運営会社の関係者みたいなんだけど、実は俺もよく知らないんだよね。俺、あのサイトの編集へんしゅうのバイトみたいなことをしてるんだけど、そこでは渡邉さんが俺の上司じょうしみたいな感じ。」

「そうなんですか。どんな感じの人なんですか?」


「あのサイトみたいに謎が多い人なんだけど・・・」と笑いながら田畑太一郎は続ける。


「まあ悪い人ではなさそう。というか、むしろすごい人だと思う。この研究業界だけでなく、研究内容にもすごく詳しいんだ。」

「そうなんですね。日本に帰るまでに会ってみたいな。」

「このB周辺しゅうへんんでるっぽいし、この座談会が無事ぶじ成功せいこうしたら、真中さんもたのめば会ってくれる・・・かも?」

「かも?」

「いや、あんまり人と会いたがらないっぽい印象いんしょうを感じるんだよね、あの人。あんなサイト、って言っちゃうと失礼しつれいかもしれないけど、ああいう『この業界の表も裏もすべてさらけ出します』系のサイトって敵視てきしする人も多そうだから、あんまり不用意ふよういに人とは会わないようにしてるのかなって思ってるんだ。」

「謎な人なんですね。」

「そうだね。渡邉さんもあのサイトも謎だらけ。俺のアメリカ留学の目的の一つは、あのサイトの謎を明かすことなんだ。だれがどんな目的であのサイトを作って運営うんえいしているのかがわかったら、この世のかくされた真実しんじつが見えてきたりして、って思ってるんだ。」


真中しずえは「大袈裟おおげさですね」と笑いながら答えると、「ははは。やっぱりそう思う?まあ冗談じょうだんいておいて、そろそろ行こうか」と田畑太一郎は答える。そして、田畑太一郎が食事しょくじ会計かいけいますと、二人でせきを立ち、座談会ざだんかいの会場であるT大学へと向かった。


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