夜の海
そこからしばらく会えない日々が続いた。
メグは何かに怯えているように思えた。電話口の声ですら弱っているようで、時折辺りをはばかるように電話を切ってしまうこともあった。小声で囁かれる「ごめんね」が切なく響く。
ヨーコの方でも、大きな事件があった。研究成果を同僚に横取りされたのだ。
共同発表のはずの論文に、自分の名前が無かった。困惑すると同時に、怒りがふつふつと湧いてきた。共同研究者の彼は確かに、中々実績を出せないことに焦っている様子だったが、ここまでするとは思わなかった。これは私の研究でもある。然るべきやり方で抗議しなければ。
しかし、教授も研究室の仲間も、この事件についてまともに取り合ってくれなかった。ある助教授などは「いいじゃないか、女性は他にやりようあるんだから」と、暗に早く辞めろという嫌味を投げてきた。誰も彼もが、彼女を遠巻きに避けていた。それが居たたまれなかった。
ヨーコを傷つけたのは、研究成果を奪われたことよりも、自分が思っている以上に周囲から孤立していた事実だった。誰よりも研究に打ち込んでいるはずだった。それでは足りなかったのか。一体何が悪かったのか。
それでも日々の実験は続けなければならない。ヨーコは半ば茫然自失としたまま、作業をこなしていた。
そんな毎日が続いていた頃、メグから連絡があった。久しぶりに直接会えるとのことで、ヨーコは少し安心した。彼女の様子も心配だったからだ。
海辺を走るバスに揺られながら、窓ガラスに映った疲れた顔に目をやる。自分はちゃんと笑えるだろうか。ふとした懸念が胸をよぎる。目を閉じて、車体の振動にじっと身を任せた。
その浜辺に着いた頃には、日はとっぷりと暮れて辺りは薄暗かった。
海岸沿いに置かれたベンチから立ち上がり、メグがこちらに手を振っている。ヨーコはその姿を見て安堵した。目頭が少し熱くなる。
二人は手を繋いで、夜の砂浜を歩いていった。互いに言葉を交わしながら、海を右手に歩幅はゆったりと。足元の砂は柔く湿って、踏みしめるたびに雪のような感触を残した。
「久しぶり。ヨーコちゃん、元気?」
「うん、元気だよ。メグは」
「大丈夫。なんとかやってるよ」
メグは目に見えて痩せ細っていた。それでも気丈な振る舞いを見せるので、
「そっか。わたしも、いつも通りだよ」
ヨーコもまた笑顔を見せるのだった。事件のことは、胸の内にしまい込む。
しばらく経って、メグが不意に立ち止まった。何やら思い詰めた様子で、口端をきゅっと引き結んでいる。メグの手は震えていた。その手を優しく握り込んで、ヨーコは尋ねる。
「やっぱり、何かあった?」
メグは俯いていた顔を上げて、ヨーコの方を向いた。そして重く張り詰めたものを吐き出すように、こう打ち明けた。
「私、結婚するの」
ヨーコははっとして顔を上げた。
「え……それって」
「うん。相手は取引先のグループ会社の人。わたし、家のために売られるのよ」
メグは自嘲するように薄く笑った。
「小さな頃から、お前はこの家、この財閥のために生きろって教えられた。ここ数年業績が思わしく無かったんだって。だから、わたしは自分の役目を果たすべきだって、お父様が」
「そんな、だって、メグは」
「全くひどい話よ。覚えてる? 私たちが出会った漁港。あの時の旅行だって、やっとのことで手にいれた、最後の自由な時間だったの」
そのおかげで、ヨーコちゃんに出会えたんだけどね。彼女の健気な言い草に、ヨーコは胸が詰まって何も言えなくなる。
「きっと、もう潮時なんだ」
メグはヨーコの手をそっと振りほどくと、海に足を浸した。そのままざぶざぶと波間をかき分けて、沖の方へと行ってしまう。ヨーコはそれをぼんやりと眺めていたが、やがて我に返ると、慌てて彼女の後を追う。
よそ行きの服が濡れて体を重くする。中々縮まらない距離に、ヨーコは焦りをつのらせる。このまま彼女が流されてしまったら。青くなった顔は、冷たい海のせいだけではない。
無我夢中で手を伸ばす。すると急にメグは歩みを止めた。足がつくかつかないかの海中で、メグはずっと水平線の向こうを見つめていた。彼女の長い黒髪は濡れそぼって首筋にまとわりついている。星明かりのみが頼りなくその姿を照らしていた。
メグは何かつぶやいたようだった。しかし、それは波音にかき消されてヨーコには届かない。
彼女は困ったような顔をして、そしてヨーコの方へと手を伸ばした。ヨーコは安心した表情を浮かべ、その手を掴んだ。
互いに手をつないで、ふたりは夜の海に浮かんでいた。黒い空に星々がちらちらと明滅している。ただ波の音だけが心地よく身体を包んでいた。
「このまま溶けてしまえたらいいのにね」
メグが言った。
ヨーコは肯定も否定もせず、ただメグの手を握っていた。
一瞬とも永遠ともつかない時が流れてゆく。ヨーコは目を閉じて波間をたゆたった。互いの体温は海と同化して、冷え切った手と手をただしっかりとつないでいた。
コンビニで買ったタオルで、互いの身体を拭いた。Tシャツなどの着替えが売っていたのは幸いだった、これでメグが風邪を引かないで済む、そうヨーコは思った。
白色灯の下、ヨーコはふと不安を口にした。
「ねえ、また会えるよね」
メグはヨーコの髪に触れながら言った。
「うん、きっと」
潮の香りがする。彼女の目にかすかな憂いがあった気がして、ヨーコはつとめてそれを考えないようにした。これでお別れだなんて、考えたくもなかった。
結局、それがふたりの最後の時間になってしまった。
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