出会い
メグとの出会いはまったくの偶然だった。しかし同時に、どこか必然めいたものが感じられたのも事実だ。
ある朝、滞在先のホテルを出たヨーコは漁港に向かった。早朝の朝市はまだ人出も少なく、買い付けや品出しに動く港の人々が忙しく行き来している。ぬるい潮風に乗って、磯の匂いが漂っている。
魚市場の白い明かりの下、ヨーコはひとりの人物に目を留める。彼女はカメラを片手に、陳列台の間をゆったりと回遊している。あちこちで写真を撮っては、ときおり遠くを見つめるように姿勢よく佇んでいる。観光客だろうか。それにしては、少し様子が違っているような。ヨーコは彼女を気にしつつも、いつも通りのルートを辿り市場を抜けていった。
行きつけの定食屋に入ると、がらんとした店内の4人掛けに腰をおろした。顔なじみの寡黙な老人に、海鮮丼をひとつ注文する。ほどなくして、ウニやホタテ、イクラの敷き詰められた海鮮丼が運ばれてくる。
それと同時に、店の引き戸をガラガラと開く音がした。それは先ほどの彼女だった。思わず凝視していると、店内を眺める彼女とふいに目が合った。驚いて視線を逸らしたが、彼女は朗らかな調子で告げた。
「よかったら、相席しても?」
空席ばかりの店内だったが、特に断る理由もない。彼女はヨーコの向かいに腰かけた。
「すみません、わたしも同じものを」
ヨーコたちの前にふたつの海鮮丼が並び、彼女は手を合わせてから食事にとりかかった。
行儀よく、しかしせわしなくぱくついて、彼女は頬に手を当てながら言う。
「おいしい……! やっぱり、朝市はこうでなくっちゃ」
ヨーコの訝し気な視線に気づくと、彼女は口端にごはん粒をつけたまま、慌てて箸を置いた。
「ごめんなさい。自己紹介もまだだったのに」
「ああ、別に、それは」
「わたし、恵美っていいます。あなたは?」
ヨーコはまごつきながらも返答する。「えー、はい、西村洋子と申します」
突然知らない女性と相席することになり、ヨーコは動揺を隠せなかった。研究職の常で、普段決まった人々としか言葉を交わさない。その上元々人見知りな性質で、こうした場面に遭遇するのも始めてだった。
「ヨーコちゃんって呼んでもいい? 見たところ同年代っぽいし。わたしもメグでいいよ」
それでも、ヨーコはメグの気さくな仕草に、少しずつ緊張を和らげていった。ふたりで食卓を囲みながら、新鮮な海の幸を堪能した。
「ようやく来れた旅行なの。わたし、本当に楽しみにしていたのよ」
橙色のつやつやした魚卵をすくい、美味しそうに口に運ぶ。それに反して、時折彼女は伏せられたまつ毛の奥に、物憂げな影をにじませるのだ。
そんな不釣り合いのわけを、ヨーコはどう尋ねてよいかわからなかった。黙って海鮮丼をかき込むと、濃厚な磯の香りが鼻腔を抜けていく。
「ごちそうさまでした」
彼女はさっと席を立つと、お勘定を呼びかけた。その様子はさっぱりとしていて、しかしそれゆえに、ヨーコは一抹の不安を覚えた。今その手を掴まなければ、彼女はきっと遠いところまで流されていってしまう。そんな根拠のない確信があった。
ヨーコは勢いよく立ち上がった。はずみで椅子が倒れて大きな音を立てる。それにも構わず、必死に言葉を紡ぐ。
「えと、案内しますよ。ここらへん、少し詳しいんで」
メグは大きな二重まぶたをぱちぱちさせて、ヨーコの方を見ていた。
「ええ、それなら、お願いしようかな」
それが二人の出会いだった。
若手の研究者であるヨーコと、大学卒業後各地を旅していたメグ。二人が同じ海洋学科の出身だったこともあり、そこからは進展が早かった。お互い専攻が近かったこともあり、楽しく会話は弾んだ。
喫茶店でカフェラテのマグを片手に、メグはふうと息をついた。
「わたしね、深海探査船に乗りたかったの」
ずっと深くまで潜っていって、誰も知らない生き物や現象を見つけるの。小さい頃から、深海の世界に憧れていたわ。メグは夢みがちな目をしてそう呟いた。
ブラックコーヒーを啜りながら、ヨーコはそれを聞いていた。研究室で検体と向き合う日々は、確かに無味乾燥ではあった。幼い頃は自分も彼女のように、深海に想いを馳せたものだったのに。
彼女と比べれば、自分は随分とつまらない人間だ。ふとそうしたことをこぼすと、
「そんなことないよ。一つの研究対象と徹底的に向き合うなんて、誰でもできることじゃない。素敵な仕事だよ」
ヨーコの目をまっすぐに見つめて、メグは本心からそう言うのだった。彼女はそういう人だった。
ほどなくして二人は交際に至った。付き合いが深くなるにつれ、ヨーコはメグの魅力だけでなく、その苦悩もまた知ることとなる。
ある深夜、ヨーコが自宅のベッドで目を覚ますと、隣に寝ていたはずのメグの気配が無かった。そっと身を起こし耳を澄ますと、ドアを隔てた廊下から、メグの焦れた声が聞こえてくる。
「だから、何回も言ってるじゃない! 私のお相手は私が決めるって……家のためって、それは分かってるつもりだけど……でも!」
長かった電話を切ると、憔悴した彼女はベッドルームに戻ってくる。
「ごめんね、起こしちゃったよね」
布団に潜り込むメグの背中をそっと抱き寄せ、頬に伝う涙を指でぬぐった。ヨーコにはそれくらいしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます