第8話

 幾度その月は満ちて、欠けたことだろう。

 石牢の天窓から、月明かりが降ってきている。

 牢には鉄格子が掛かっており、その向こうには石段が見えている。

 私の肉体は石牢に仰臥ぎょうがしたまま、毛ほどの動きもしなかった。

 午後も遅くなってから介護の僧が訪れた。

 水を含ませた布をしぼって、この口に水を与え、何かの肉を含ませる。排泄もごく僅かだ。同じ僧がその布で尻を拭い去って、それで終わりである。とても肉体を維持できるような量ではないが、不足は感じない。時には布に獣の血を含ませたもので、唇を濡らすだけの食事の日もある。

 私は肉体の変容アーヴァタールに気づいていた。

 これまで見えぬものが、えるのである。そのひとつが熱である。

 介護僧が回廊を歩いてくる気配と、その熱量の動きが、石壁の向こうで判るのである。

 さらにもうひとつが光である。

 星明りでも全てが明るく見えた。岩肌のひとつひとつの結晶さえ数え上げられた。

 その視力の恩恵か、今度はあの二人がそこに居ることは承知していた。

 石段を歩いてくる歩みのひとつひとつ、その呼気の弾みのひとつひとつが、熱量の動きとして感知していた。シアタが屈みこみ、かんぬきを外す様子までが、石壁の向こうに感じられるのだ。

 シアタはその夜、錫杖棍しゃくじょうこんを携えてきていた。

 その錫杖棍の一部を捻ると、その先端にぎらりと槍の穂先が現れた。

 シアタの体熱のいくつかが、ぽつんぽつんと明るくその短槍に刻印されていた。彼がそれを持ち替えたてのひらの熱が視覚に捉えられている。

 アーシタは無言で会釈した。

 シアタはその槍先で私の左の太もものあたりを貫いた。

 あっさりと貫通した刀身が、その勢いで床石を突いて止まった。彼のその短槍を引くときの見事さも、武術の心得のある身のこなしであった。

 身体が硬直しかけたが、気取られないような僅かな動きに留めた。というのも、その痛みたるや、実は誤って踏まれた程度にしか感じなかったのである。

「どうだ」

 という僧主アーシタの声は私に問うたものか、シアタに告げたものか判然とはしなかった。冷たい血が太股を伝うが、痛みは鈍いままである。

「これは。頃合いのようですな。じきに四肢も抜け落ちましょう」

「次に月が満ちるとき、であるか」

 満足げにアーシタは笑った。

 踵を返し、石牢を去っていく。しかし今度は幻ではなく、熱量のある実体が、壁の向こうにゆるゆると石段を上っていく。

 可笑しくてならなかった。己が運命を悟ったのだ。

 ならば、と思った。


 介護僧が閂を開けて入ってきた。

 息を飲むのが判った。彼は腰を落として燭台と食物を乗せた盆を置いた。

 手で床を探って、私を探していた。息を凝らして待った。

 介護僧のその手は私の背中を探ったが、その冷え切った背に、彼は気づきもしなかった。生力プラーナを支えるのは、熱と水と食物である。

 そのほとんどを絶たれた私を、感知できようはずもない。今や私は冥界からの使者であるからだ。介護僧の呼吸が荒い。焦燥に炙られ、煩悶はんもんに震えているのだ。

 そうでなければ私が被った苦痛を、その恐怖をあがなうことできない。

 幾月も仰臥し続けた肉体を動かすのは至難であった。

 筋肉の萎縮したそれは冷えた塊となり、己が意思を拒絶していた。まるで耳朶を動かそうとしているような精神力を要した。

 助けとなったのは、熱を見ることのできる視覚である。晴天の午後になり気温が温むと、僅かながら背筋をねじれるようになったのだ。

 寝返りが打てるまでに数日を要した。

 石床に伏せ続けた背に激痛が走ったが、耐えた。耐えながら覗き見ると、岩苔まで背に繁茂していた。つまり夜半にうつ伏せになれば、監禁でひび割れた私の肌は、石に同化して見えるはずだ。

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