星の降る夜

 ジャコと星守りの二人を乗せた足場は、ゆらゆらと揺れながら水面と共にぐんぐんと高度を増してゆく。

 深部階層を過ぎ闇の間をあっさりと抜ければ、次第に居住階層が見えてくる。それでも勢いは止まることなく水位は上がり続けている。


「一体どこからこんだけ水が溢れてくんだよ」

「もちろん星からだ」


『星の井戸』だから当然だ、と言わんばかりの星守りだが、そもそも星とは何なのだろうか。

 ジャコは首を傾げつつも水面を覗けば、足下には水に沈んだ縦穴が伸びている。壁に張り付いた照明変わりであった澱は水に触れた途端にぱしゃりと溶け、おかげで下層は随分と仄暗い。

 すべてを呑み込み溶かしてしまうのではないか、そんなとりとめのない恐怖がジャコの中に湧き上がる。


「この水はすべての命を溶かす、そういうものだ」


 ジャコの気を知ってか知らずか星守りが言う。すべてとはもちろんジャコも含んでいるのだろう。

 そうだ、確かにこの井戸は一度落ちたら出る術はないと聞いていた。今更恐れても仕方のない事だ。

 納得すると同時に疑問も浮かんでくる。


「溶けた命はどうなるんだ?」


 溶け残った意識は澱となって井戸にこびりつき星啼きを生み出す。今回それを掃除したわけだが、水の中に溶けたままならまたいつか同じことが起こるのではないか? ジャコもいずれは――そんなことは御免だ。


「いずれ星へ還るとも」


 星守りの言葉と同じくして、それまで上昇を続けていた水がはたと止まる。

 顔を上げればとうにキャクシツの階層も過ぎいよいよ縦穴の淵に手が届きそうな、井戸から水が溢れるすんでのところだった。

 空が近い。――いや、空?

 気付けば常に覆いかぶさっていた靄がからりと消え失せ、澄んだ闇が頭上に広がっていた。雲一つない闇夜に瞬く無数の星はえも言われぬほどの絶景ではあるが、どこか物悲しさも感じさせる。


「これは丁度いい。今宵は星渡りか」


 ジャコの隣で同じく空を仰いだ星守りが呟く。


「見ていろジャコ。これが井戸の、星の営みさ」


 薄闇の中で微笑む星守りの輪郭が俄かに輝きだした。



 始めは微かな灯のような光だった。星守りの背の奥からぽつりぽつりとそれは生まれ、暗闇に溶けてしまいそうだった少女の姿をくっきりとジャコの瞳の中に縁取る。

 どうやら水の中から発生しているようだ。光の粒はどんどんと数を増し、すぐに水面を埋め尽くす。

 周囲の一面が光に覆われる中、二人の乗る足場だけが光を遮りまるで穴を穿つように影を落としている。


「まぶし……」


 ジャコが思わず腕で目を覆う。


「始まるぞ」


 が、星守りの言葉でそっと薄目を開く。

 光が舞っていた。それは指先程の小さなものから両の手ほどの大きなものまで様々だ。色とりどりに輝く光、ほんのりと明滅する光、ひとつとして同じものは無いように思える。

 水面から解き放たれた光はふよふよと宙を泳ぎ、気付けばジャコの周りでもくるくると幾つかの光が戯れている。まるで意志を持つかのようだ。


「……ははっ、何だかくすぐってぇ」


 触れても感覚はない。温度も感じない。それでも見ていると胸の奥が熱くなる。……不思議な光だ。

 やがて遊ぶことに満足したのか、光は空へと昇り始める。一つ二つ、上昇を始めれば倣うように後を追い、やがて奔流となった光の柱が天高く伸びて行く。

 ――どこまでも高く高く舞い上がる光の粒は遥か遠く、最果ての町からも見えるのだろうか。

 そういえば、とジャコは思い出す。昔おぼろげに聞いたおとぎ話の一節だ。無限に星の降る最果ての地、それこそが『星の井戸』と呼ばれる所以なのだと謡っていた。

 実際は降っているのではなく昇っているわけだが、吟遊詩人に真実を伝えたらどんな顔をするだろうか。叶わぬ妄想に思わずため息が漏れる。


「これが『星の井戸』本来の姿なのか」


 奇跡とも呼べる光景を前にジャコは立ち尽くすばかりだ。

 気付けば星守りが側に立ち、同じように空を仰ぎながら囁く。


「数十年に一度に起こる開花さ。霧が隠れた夜、水に溶けた命たちが一斉に旅立つ。これが星渡りだ」

「開花……旅?」

「ああそうだ。天に昇り世界へと散り、再び地に生れ落ちる。悠久より繰り返される摂理さ」


 節理だの営みだのと言われても、ジャコにはいまいち想像ができない。ただ、己がちっぽけな存在であるというのは痛いほどに感じる。


「……難しい事は分かんねぇ。けど――綺麗だな」

「私もこの光景は嫌いじゃないよ」


 遥か高い空の彼方で星が流れる。

 光の尾を引き旅立つあの光はどんな姿で生まれ変わるのだろう。やがて『星の井戸』を目指すのだろうか? 恐ろしくも美しいこの地へと。

 そう考えた時、ジャコの脳裏に浮かんだのは一人の仲間の男だった。

 その男――ギーツは一人の女に尽くし、しかし報われることなく地に果てた。最期まで彼は悔いることはなかった。

 今なら少しだけ気持ちが分かる。……ほんの少しだけ。


(理屈じゃない)


 美しい、だから惹かれる。これは本能であり抗えない宿命なのだ。

 この先も多くの探索者シーカー『星の井戸』この地を目指すことは想像に難くない。それが星守りの言う節理というものなのだろう。

 ……例え星啼きが止んだとしても。その流れは変わることなく、延々と繰り返されるのだとジャコは理解した。



 遠くで空気の震える音がする。

 星啼きとはまるで違い不穏さを感じさせない、むしろ心地のいい響きだ。

 どこか懐かしく感じるその音はまるで歌のようだ――気付けばジャコは旋律を口ずさんでいた。幼い頃に故郷で聴いた歌だった。

 無数の光が舞い流れ落ちる中。『星の井戸』のさざめきとジャコの歌が闇夜に溶けていった。


 ◇ ◇ ◇


 永遠に続くかと思われた星の降る夜もやがては終わりを迎える。

 空の端が白み始めた頃には昇る光もまばらとなり、最後の光を見送った頃。周囲は既にいつもの白い霧に包まれてた。

 星渡りが止むのと時を同じくして、井戸をなみなみと満たしていた水にも動きが見え始める。徐々に水位が下がり始め、ジャコと星守りを乗せたままの足場もゆっくりと高度を下げて行く。


「開花を終えて腹が減ったのさ」


 渇きを潤す為と言うが、星守りの俗っぽい言葉のせいで余韻が台無しである。先程までの神秘的な光景との落差にジャコは落胆を禁じ得ない。……いつも通りだ。

 何にせよ、ずっと水位が高いままであったらどうしようかと思っていたところなので正直ありがたい事ではある。

 そのまま成り行きに任せるよう、床へと座り込むと大きく一つ息を吐いた。



 ゆっくりと高度を下げる景色の中、ジャコは不思議なことに気付く。灯りとなっていた澱がなくなったことで下層は暗闇に覆われている……そう考えていたが、思いのほか明るい。

 辺りを見回し光源を探ればぽつりぽつりと点在する光る物体が目に留まる。壁からにょきりと細い管が伸び、その先に拳大の丸い――木の実?がぶら下がっている。いつの間にやら芽吹いたのか、その光る木の実が代わりの光源となり井戸内を淡く照らしていた。


「あれは?」

「水を得て脇芽が顔を出したようだな。触っても害はないが、ヒトが食すのには向かないな」


 ジャコが訪ねれば星守りがそう解説する。


「……別に食いたいとか思ってねーよ」

「そうか。大層えぐみが強いらしく、食べた時に愉快な表情を作るという噂なのだが。試してみても構わんよ?」

「なおさらいらんし、んなもん薦めんな」


 そんな他愛もない会話の間にも景色は流れ、様変わりした姿を次々と晒していく。

 そして、最下層。

 元の水位と同じ高さまで来たところで降下は止まり、足場も定位置へと戻る。脇を見れば縦穴からぐるりと伸びる螺旋階段が横付けされ、二人の帰還を迎えているようにも思えた。

 しっかりと固定された螺旋階段へと一歩足を踏み出すと、それまで不安定な場所にいたせいか逆によろめきそうになる。

 手摺りに掴まりながら慎重に上りつつ、ジャコは考える。


(これから俺は何をすりゃいいだろう)


 後ろを振り向けばジャコの後を楽しそうについてくる星守りが見えた。

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