報いの手

 開けた階層には上階のように荒んだ様子はなく、安穏と水面が揺れていた。

 見上げれば遠くに井戸の大穴が見え、いつの間にか闇に包まれた空を丸く切り取っている。

 渦を描くように伸びる螺旋階段をゆっくりと降れば水面の中央へと浮くような円形の足場へと辿り着く。

 ようやくジャコは星守りと共に目的地である『星の井戸』最深部へと到達した。

 水を覗き込めばくたびれた顔をした少年が映る。

 ああ、とてもひどい顔だ。水に溶けた亡者共もさぞ嘲笑っているに違いない。


(別に構わねぇさ。俺の目的はもうすぐ達成されるんだからな)


 ひとしきり思いに浸った後、ジャコは改めて星守りに向き直る。


「ここまで来たぞ。後は……何をやればいい?」


 ジャコの目的は星啼きを止める事。そのためには井戸中にこびりついた澱を排除せねばならず、手段として井戸を水で満たす必要がある。だがどうやって?

 足元には揺蕩う水。あれほどジャコを引き入れようとさざめいていた声は聞こえず、驚く程に静かだ。

 一度目にここを訪れた時に星守りは「この水は触れれば死を招く毒」だと言っていた。これから何が起こるにせよ、細心の注意を払う必要があるだろう。


「うむ、ではジャコよ。これからミズタマリの中へ潜ってもらおう」


 知ってた。星守りはこういうヤツだって……ジャコは長く長~い溜息を吐きだした。



 水に囲われた円形の足場の上、中央に立った星守りは己の足元を指し示す。

 曰く、こうだ。

 今二人が立つこの足場は芯柱と呼ばれる柱――植物の茎のような物の、柱頭にあたる部分らしい。この芯柱は水の通り道である道管であるが、この足場が蓋となって塞いでいる。故に芯柱を切断することで水の流れを生み出し井戸を満たすことが出来るのだと。


「生憎、私は澱など異物に対しての攻撃はできるが自身を傷つけることはできない。この役目を果たせるのはジャコのみだ」


 ジャコにしか為し得ない――その言葉の意味を理解しぶるりと身を震わせる。

 無論覚悟は出来ている。それでも確認しなければいけない。


「もちろん、水に入って死なないアテはあるんだろうな?」


 今更命は惜しくない。しかし本懐を遂げる前に果てたのでは意味がない。水に触れた途端溶けて消えてしまいましたでは堪らない。

 返事を促す様星守りの目を見れば、その顔がぐっと近づく。不意の行動に反応が出来ずにいれば、答えの代わりとばかりに柔らかいものがジャコの口を塞ぐ。


「――――っ⁉」


 何が起こっている⁉ いや、半ば混乱しつつも自分が今どういう状況にあるのかジャコは理解できている。己の口を星守りの唇が塞いでいる……つまり口づけをしているのだと。

 はっきりと認識した途端に頭が沸騰するかのように熱が集中する。


(何で急に? っつか浮かれている場合じゃねぇ!)


 堰き止められた呼吸の出口を求めるべく星守りの肩を掴み足掻くが、離れるどころかさらに艶めかしい感触が口内へと侵食してくる。


(んぐ……甘い、苦し……っ心地いい…………)


 それは比喩ではなく甘い蜜のような。こくりと喉を鳴らし、されるがままに身を預けていれば視界が虚ろに溶けていく。苦しさと快楽がない交ぜとなりジャコの意識が切り離される。

 ――すんでのところ、突如呼吸は解放される。新鮮な空気が勢いよく肺になだれ込み、げほげほと激しく咽せ返る。


「ふむ、ちゃんと飲み込んだな?」

「げほっ……な、っ何を……?」


 ちかちかと揺れる視界の中央で、ぺろりと舌を見せる星守りが見えた。その表情はどことなく楽しそうだなどと、場違いな感想がジャコの脳裏によぎる。


「私の一部がジャコの中に在るうちは水に溶けることはないだろう。ただし長くはもたんよ。手早く済ませることだ」


 そんなことはお構いなしに星守りの言葉は続く。未だ熱が残るジャコの思考ではうまく咀嚼できず反芻されるばかりだ。


「つまり、だ」


 ジャコの身体が揺れたのは気のせいではない。

 棒きれのような細い足に背を押され、足場の外へと落ちていく己の身体を緩やかに見送れば次の瞬間。


 ――ばしゃん!


 水柱が上がりジャコの全身を冷感が包み込む。

 急激に覚醒した視界には意地悪い笑みを浮かべた星守りが映り、刹那さざ波に流されていく。


「せいぜい死ぬなよ」


 くそ星守り! そう叫んだジャコの言葉はごぼごぼご水の中に掻き消えた。




「っぷはぁ!」


 一旦水面に顔を出し息を継ぐと再び水中へと身を沈める。毒が無効だからと言って呼吸まで不要になったわけではないのだ。

 動きの制限される水中でもたくたとナイフを取り出し、 透き通った水の中でジャコは正面を見据える。


(あれが芯柱か)


 井戸の縦穴の中央に位置する、水上で星守りが立つ足場――つい先刻まではジャコ自身も乗っていたが――の真下を見れば、遥か深い水底からまっすぐに伸びる根のような茎のようなものが確認できる。

 幾本かが絡まり合ったその幹の太さはジャコが両の手を伸ばしても足りない程で、まさしく柱といった佇まいだ。

 あれをぶった切れば終わる。果たしてジャコの手に在る小さなナイフ一つでそれが可能なのかは不透明だが、やるしかない。

 早々に水を掻き芯柱へと近づけば、表面に細かな蔦が絡みついているのが分かる。それを左手でしっかと掴み同時に両足を柱に着け踏ん張る。逆手に持った右手のナイフを振りかぶったところで――ジャコの身体を痛みが襲う。


(⁉)


 一瞬水の毒かと思ったが違う。違和感を感じ己の身体を確認すれば、透明な水に紛れるような透き通った身体を持つ何かがジャコの体のあちこちに纏わりついている。

 透明な何か――澱ではない、亡霊の魂とでも呼ぶべき物体がまるで牙をたてるようにジャコの肌へと食い込み、身体のあちこちからは糸のような赤い筋が流れ出す。


(クソっ離れろ!)


 振り払おうと体を捩るが手ごたえはない。そうこうしていれば今度は水上から槍のような物が無数に降り注ぐ。


(次から次へと……!)


 苛立ちの中で頭を上げれば水音の中、気泡と共に弾け飛ぶ亡霊どもの隙間からちらりと人影が揺れる。星守りだ。亡霊が相手と見て加勢に打って出たのだろう。

 それでも水の中というのは相手に分がある。散ってもすぐに別の個体が出現し執拗にジャコに襲い掛かる。まるできりがない。

「急げ、時間がない」星守りの口がそう動いたように見えた。分かっているさそんなことは。

 ジャコは齧られながらも、構うことなくナイフを芯柱へと振り下ろす。さくり、と思いのほか軽い手ごたえ。だが柱の表面に傷がついただけで到底切断には至らない。

 だったら? 何度でも切り付けてやればいい。幾度目かの攻撃で手ごたえが、ざくりと変わる。


(⁉)


 堰を切ったよう、というのは比喩ではない。

 出口を得た水が芯柱の内から怒涛の勢いで溢れ出し、たちまちにジャコを押し流す。

 水流に揉まれ上下も分からぬほどにもみくちゃにされる中で微かに捉える。僅かであった隙間があっという間に大穴となり、ぐらりと傾く芯柱が見えた。


(これで……いいんだよな?)


 ごぼり、とジャコの肺に残っていた最後の空気が泡となって昇ってゆく。ぐんぐんと水かさを増す井戸の中から見上げれば水面はもう随分と遠い。視界がぐにゃりと歪んでいるのは水流と気泡のせいだけではないだろう。

 己の目的は果たした。このまま水に溶けて消えるのもやむなし、惜しむらくは結果を見届けられない事だろうか。


(アガドスは、仲間たちは許してくれるだろうか)


 白む意識を諦めが苛むのも束の間。そんな弱気を吹き飛ばすように、厳しくも凛とした声がジャコの意識へと割って入る。


「ジャコ! 早く上がってこい!」


 それは幻聴だったのかもしれない。水の中で聞こえるはずのない聞き覚えのあるその声に目を見開けば、己の右腕に絡む一本の触手が飛び込んでくる。軟質で温かみを感じるそれは明らかに澱とは違うものだ。

 その正体をすぐに察ししかと握れば、応えるように触手はジャコを導いていく。水流を掻き分け上へ上へと引き上げられ、ついに水上へと打ちあがれば新鮮な空気が肺へと流れ込む。

 そのままの勢いでどさりと転がり落ちたのは、芯柱の支えを失い浮島のようになった円形の足場の上だった。


「よくやったな、ジャコ」

「げほっ! ……っ、ごほっ…………おう」


 未だ揺れるジャコの視界に、柔らかく微笑む星守りが見えた。

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