見果てぬ先へ
気が付けば音が聞こえる。発生源は目の前に聳える大峡谷を抜けた先だ。
それは探索者たちから『星啼き』と呼ばれる現象である。空気を震わせながら木霊するその音は低くもあり高くもあるようで、不安定な旋律が不快な感情を呼び起こす。
誰しもが初めて耳にするその音こそが「谷を抜ければ星の井戸まで程なくだろう」と囁かれる所以だった。
以前と何ら変わりのないその音に感慨を覚えつつ、ジャコは走り出す。その手には一本の縄。足元に転がる石を器用に拾い縄の中央にあてがうと、その両端を握り込み大きく振り回す。
(攻撃目標は……崖の中段、砂利が積み上がったあの
勢いよく振った
――ギョアアアア!
星啼きを引き裂くようなけたたましい声と共に巨影が空へと浮かび上がる。
「ハッ、
その姿を確認すると、ジャコはくるりと背を向け元来た方向へと駆けだす。当然、飛竜も追ってくる。姿は見えないが鼓膜を襲う金切り声で分かる。大層ご立腹のようだ。
「その調子でついて来いよ!」
目指すは谷の入り口、その地を護るように立ち塞がる人面獣である。
……そうは言ってもまだ距離がある。巨大な飛竜にとってはほんの数回羽ばたくだけであっという間に到達しそうな距離だがこと人間、その中でも小柄であるジャコにとっては遥かとも思える道のりだ。
(まだだ、あと少し……!)
全速力で駆けるも空しく、追う者と追われるものの距離がゼロになる。と同時に飛竜は真上へと上昇しくるりと反転、ジャコが見上げれば鋭い牙が連なる凶悪な口が地上目掛けて襲い来る。
(……っし、届いた!)
攻撃が届くすんでのところ、
そこは岩の大地の隙間を埋めるように点在する砂地だ。脇腹を掠める鉤爪を身を捩って躱し、崩れた体勢のまま地面へ拳を突き刺すと――触れたそれを一気に引き抜く。小さな棘がびっしりと並んだ縄の様な蔦が地中からずるりと引きずり出され、空を掻く飛竜の足へと絡みつく。
これで自由は奪った。後はコイツを御しつつ谷を目指せばいい。……そうジャコは考えるも、足を拘束された飛竜は一層の憤怒を見せ、未だ自由の利く首で激しい抵抗を見せる。
(くそっ、これじゃ近付けねぇ)
鋭い牙の連なる凶悪な口がジャコへと向いたその時だ。
「ジャコ、横に飛べ!」
「……っ!」
その声に反応しジャコは真横へと跳び退く。
地を転がりながら振り向けば、頭上には飛竜を囲うように張り巡らされた縄が舞っている。
「ギーツ、何で⁉ 待機してろって――」
「一人より二人の方が成功率は上がるだろう! それより……くっ、長くは持たん!」
予め罠を仕掛けておいたのだろう。崖際に身を潜めていたギーツが縄の端を引くと飛竜の身体をきつく縛り付ける。とはいえ簡易的な罠では到底抑え込める相手ではない。それでも。
「十分!」
生じた僅かな隙を逃さずジャコが追撃を繰り出す。毒草から作られた目潰し粉を顔面に浴びればさすがの飛竜とてただでは済まない。敵を見失った頭を鷲掴みその首に跨ると、縄を振り切り逃れる飛竜と共にジャコはその身を空へと躍らせた。
◇ ◇ ◇
空へと舞い上がる一頭と一人を確認し、こちらも動き出す。
後方で待機していたアガドス率いる探索者隊の馬車がゆっくりと谷に向けて前進を始める。
「合図をしたら全速力で駆け抜けるんだ。決して速度を緩めんじゃねぇぞ」
早くに近付きすぎればこちらが人面獣に襲われる、だからと言ってのんびり構えていれば谷を通過しきる前に追いつかれる。タイミングが肝だ、と御者台に立つアガドスが緊張を浮かべる面々に語る。
やがて飛竜が大峡谷へと接近する。首のあたりに跨るジャコが両手で頭部の角を掴んでいる様子が見え、その進路を巧みに誘導していることが窺える。
「相変わらず無茶苦茶しやがるぜ……」
決死の作戦中だというのに、アガドスからは思わずといった苦笑が漏れる。
生意気な小僧だと思っていた。最果ての町では珍しくもない擦れてやさぐれた性根。しかしその奥に微かに残る純粋さを見た気がした。傭兵団を失って自棄になっていた自身と重なる……というのは言い過ぎか。
そんな少年がいつの間にか信用を勝ち取り隊に馴染んでいた。旅の道中、ジャコの助言に救われた場面は数えきれない。
――そして今も。アガドスの友を救うため、と同時に己の曲げることのできない信念を貫く為にジャコは戦っている。
「出来る事なら、この先も行動を共にしたいものだぜ……」
ぽつりと漏れた本音は誰の耳に届くこともなく風に流されていく。どのみちやることは変わらない。
飛竜とジャコが谷の手前に降り立つと同時に複数の人面獣が姿を現す。
……いよいよだ。
無言のままに右手を天に掲げる。合図と同時に二台の馬車が勢いよく駆け出した。
◇ ◇ ◇
ジャコの体が地面に転がるのと人面獣共が目の前に現れた『敵』に対して襲い掛かるはほぼ同時だった。
飛竜に跨り降下中、まだ高度が残るうちにジャコはその背を離れる。硬い地面に何とか着地するも勢いを殺しきれずに地に体を投げ出せば、視界の先では魔獣同士が死闘を繰り広げていた。
――キッ、キキィイイイイイ
牙を剝き甲高く叫ぶ獣の姿をジャコは初めて捕らえる。四足の獅子の様な体躯に、人面……とは言われているが猿を思わせる頭。その尾は長くしなり、百足のように光沢のある節が連なっている。悍ましい、その一言に尽きる姿だ。
キィキィと耳障りな声を上げる人面獣の群れ、その数4頭。その全部を合わせた大きさのさらに倍以上はある飛竜へと、体格差をものともせずに群がり喰らいついている。本来の力関係がどうなのかは分からないが、空を主戦場とする飛竜が地を這っているのだ、分が悪いのは確かだろう。
幸いにして魔獣たちにジャコの存在に気を回す余裕は見られない。双方血を流し激しくぶつかり合っているが、その戦いは拮抗して見えた。
(うまくいった……のか⁉)
ジャコは息を殺し慎重にその場を離れる。魔獣を迂回し谷を抜ける経路を目で追えば、同じく目指すギーツと馬車隊がそれぞれの方角から迫るのが見えた。
三つの進路が交わる一点、そこへ飛び込むようにジャコは一気に地を蹴る。
「ギーツ、ジャコ! 手ぇ伸ばせ!」
幌馬車の荷台から身を乗り出したヴォーグが叫ぶ。
砂牛を酷使し爆走する馬車が斜め後方から迫っていた。魔獣は未だ戦闘を続けているが、いつこちらへ標的を切り替えてもおかしくはない。馬車の速度を緩めることをアガドスは選ばないだろう。
(チャンスは一度きりだ)
小柄な体を目一杯伸ばしジャコはヴォーグの腕を掴む――そう思われた手が目前で空を切る。
ぐらりと体勢を崩したジャコがゆっくりと地に沈んでゆく。
……何が、起きた? そう思考が固まる中で、傾くままの視界に身を委ねていればコマ送りのように映り込む景色。それは足元を横切る不安定な砂地、地表に覗く蔦と続き、つま先が埋もれた自らの足が映し出されたところで理解する。
なんともつまらない失態だ。魔獣を嵌めるために利用した地形に今度は自分が嵌まるなんて。堪らずジャコから失笑が漏れる。
今まで随分とぎりぎりを生き抜いて来たと自負があった。それはこんなにもあっさり終わるものなのかと呆れずにはいられない。
(まあでも、これでアガドスらは無事谷を抜けられんだろ。ギーツも――)
自分でも驚く程にあっさりとその現実を受け入れていた。で、あるのに。
もう一人の、共に囮役を請け負った仲間に思いを巡らせたところで不意に体が持ち上がる。振り返ればその男はジャコの身体を片腕で軽々持ち上げ、走ってきた勢いそのままにブン投げた。
宙を舞うジャコの身体は別の腕に引かれ馬車の荷台へと吸い込まれる。
「そいつを頼む」
「ギーツっ!」
上下が逆さまになったままのジャコの視界には、身を乗り出し叫ぶ男たちの背と、どんどん小さくなっていく一人の男の姿がいつまでも映っていた。
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