再びの、この地

 これから決死の作戦を決行するというのに、ジャコの心は自分でも驚く程に凪いでいる。


(……あの時とは違う)


 思い出すのはもう何年も前の光景だ。当時となんら変わりのない殺伐とした景色を前にすれば、その記憶は鮮明に蘇る。

 しかし変わったものもある。それはジャコ自身だ。


(今の俺には目的がある、仲間もいる。そして――希望?)


 胸の奥に燻る微かな感情をそう呼んでみると、応えるように心臓が高鳴る。


『お前は何でガイドなんて難儀な役割を志願したんだ?』


 不意に割り込んでくるのは以前アガドスに問われた記憶だ。


『最果てを出たいってだけなら街を目指すモンだろう? 『星の井戸』を目指す理由でもあんのか?』


 道中に何度か聞かれたことだが、ジャコはその度に返事をはぐらかしてきた。

 なんてことはない、ジャコ自身にも理由なんて分からないだけだ。ただ漫然と世の中に対するいら立ちが己の中にあった。だから最果ての町を出た。それは怒りなのだとずっと思っていた。

 しかし違った。その事に、ここまで来てようやく気付いた。思い出させてくれたのはアガドスの語ったアガドス自身の話。


『初めてを知った時、そりゃあ心が震えた――』


 そう口にする彼の瞳は無垢な少年のように輝き、ジャコを映す鏡のようでもあった。


(そうだ、俺はずっと求めていたんだ。あの時からこの地に戻って来ることを。そして、今度こそその先を見るために……!)


 なぜ忘れていたのか。

 思い出したことはジャコにとって幸となるか不幸となるのか。

 それはジャコのその後の運命を決定づける、初まりの話。


 ※ ※ ※


 狭く暗い場所だった。

 身動きもまともにとれない箱のようなものに詰められ、揺れるたびに小さな体があちこちにぶつかれば痛みとなって全身を駆け巡る。

 泣いても叫んでも無駄なことは知っている。そんなことをすればさらに強い痛みに見舞われることとなるのだ。

 数日前に殴られた頬をそっとなぞれば熱く火照りどくどくと脈打っている。すると恐怖が蘇り、もはや出来るのは息を殺し耐える事のみだ。

 幼いジャコはそうやって、いつ終わるかも分からない悪夢のような日々を重ねるのだった。



 揺れる暗闇の中で考える。どうして自分がこんな目に合っているのか。

 目を閉じて思い出すのは家族の顔だ。両親と、自分が産まれる前から務めているという馴染の従業員たち。

 ジャコの家は商いをしていた。生まれた街でほどほどに大きな店を構え、多くの客に愛され、ジャコは幸せに満ちたその中で健やかに暮らしていた。

 転機は両親の元を訪れた知人からの依頼だった。物資の乏しい僻地の町まで行商に来て欲しいという。

 遠くはあるが利益は期待できる、商売人として断る話ではない。ただ憂うのはまだ幼い息子の事。長い旅路は酷だろうと留守番を言い渡したのだが、返ってきたのは拒絶の意だ。


「おれだってもう計算もできるし馬の世話だってできる。ぜったい役に立つから!」


 ませた台詞と、裏腹に年相応の無邪気さを見せれば両親はあっさりと絆される。そうしてジャコは生まれ育った街を発った。



 聞こえてきたのは身内の悲鳴と、見知らぬ男たちの怒声。「盗賊だ!」と叫んだのは護衛で雇われていた男だろうか。ジャコは言われるがまま荷台の奥で布を被り耳を塞ぐ。

 目的地である最果ての町は目前だった。

 しかしその街に商隊が降りる事はついぞなく、道半ばにして大人たちは血に染まる大地へと沈む。

 売り物であった物資が盗賊たちの馬車へと移されるなか、一人の少年だけが呼吸もままならない様子で震えながら、その作業を見守っていた。


「頭ぁ! このガキはどうします?」

「丁度いい、大峡谷を越えるための生贄を探す手間が省けたぜ。樽にでも放り込んどきな!」


 破落戸の太い腕がジャコへと伸びるが、抵抗しようにも体は言う事を聞かず、口だけがはくはくと空しく動く。乱暴に木樽へ放り込まれるとそのまま盗賊の馬車へと積み込まれ、一行は新たな目的地へ向け進みだした。



 暗い樽の中。僅かに与えられる水と食料に縋りながら、外の様子を探るよう必死に耳をそばだてる。

 漏れ聞こえるのは馬車が翔ける音と馬の嘶き、それらに紛れる男たちの話し声だ。断片的な言葉を繋ぎ合わせればジャコはこの一行の目的地を知る事となる。


(『星の井戸』……聞いたことがある。前にうちの店に来た客が歌ってたやつだ)


 しかしそれはおとぎ話じゃないのか? そう首を捻るも、この男たちは本気でそこを目指しているらしい。


(こんなヤツらのために父さんも母さんも、他のみんなも……ちくしょう)


 道中に響く陽気な笑い声と時折の悲鳴に耳を塞ぐも、その進みが止まることはない。

 仇も討てず逃げることも叶わず、ただ蹲るばかりの己の身がなんとも疎ましい。

 日を数えるのも煩わしくなった頃、一行が足を止めるとジャコはようやく陽の光を見ることとなった。



 衰弱し痩せ細った身体の前に聳えるのはまるで地獄への入り口かと見紛う谷だった。

 殺伐とした荒野の中でそれは威厳すら感じさせ、ジャコは思いがけずにじっと見入る。と、同時に。自分はここで死ぬのだろうと幼いながらに悟る。

 不思議と恐怖は感じなかった。もうすぐ両親の元へ行ける、そう思えば心が安らぐ気さえした。その時を今か今かと待っていたが、独り佇むその背を風が撫でるばかりで一向に音沙汰はない。

 振り向けば自分をここまで運んできた馬車が見える。この先を真っ直ぐ進めと言い残しジャコを一人置き去りにしたわけだが、その後動かないジャコを責め立てることもなく静かにその場に留まっている。


(おれが動くのを待ってるのか?)


 ふらつく足で谷まで進むのは困難を要する。ならばいっそこの場でひと思いに――そこまで思考したところで事態が動いた。

 野太い男の声が荒野に響き、ジャコの思考が目の前へと引き戻される。視線の先でぐらりと馬車が揺れ、赤い飛沫と人影がゆっくりと地面へ落ちていく。理解できないままに瞳で追っていれば、その横で弾かれたように馬が走り出す。

 猛烈な勢いのまま進む馬車はジャコには目もくれず真横を通り過ぎていく。

 ……手を伸ばしたのは無意識だった。馬車からたなびく縄を紙一重で掴んだジャコの体は勢いよく後部の荷台へと転がる。

 そのまま真っ直ぐ、大口を開けて待ち構える谷へと一直線に進むと思われたが、直前にして進路がぐいと捻じ曲下がる。御者台から一人の男が崩れ落ち、別の男が強引に馬の首を横へと向けさせていた。


(仲間割れ⁉)


 周囲を見てふと気づく。気付けば大所帯だった盗賊の一味はその数を大きく減らし、今や片手に収まるほどしか見えない。その数少ない男たちが醜くも、一心不乱に手綱を奪い合っているのだ。

 一体何が起きているのか。分からないまま必死にしがみつく馬車は二転三転と向きを変えながらも足を止めることはない。

 このまま進めばあるいは助かるのではないか? 一度は諦めた生がちらりと尾を見せればジャコの心にも欲が染みだす。


(そうだ、おれはこんな所で……わけも分からず死ぬなんてイヤだ!)


 なんとかあの手綱を奪えないか。黒い瞳の奥にぎらりと光る意思が灯った。



 その企みはなんともあっさりと覆されることとなる。

 御者台から死角になるよう荷台の縁を這って前方へと進むジャコであったが、いとも容易くその姿は暴かれる。それはジャコだけではない。馬車に残っていた幾人の男たち皆が白昼の元へその身を晒している。

 気付けば荷台を覆っていた幌がまるっと剥がされ遥か後方に転がっていた。遮る物のなくなった視界に現れたのは――巨大な翼。

 鳥ではない。もっと大きく、つるりとした肌に羽毛は欠片も生えていない。大きな口を開けば尖った牙がずらりと並んでいるその姿は、凶悪としか言い表せない。


飛竜ワイバーンだと⁉ チックショウ、こんなとこに居やがるなんて……聞いてねぇ!」


 その正体を口にしたのは盗賊の男だ。しかしジャコにとってはどうでもいい事だった。生まれて初めて見る魔獣と類されるものを前に、一瞬で恐怖に呑み込まれる。

 呆けるジャコに目もくれず、男たちは飛竜と呼んだ魔獣へと懸命に攻撃を仕掛けている。投げつけられた斧や槍が魔獣の皮膜に傷をつけ、その様子にジャコも再び正気を取り戻す。――も束の間。


「いいぞ、効いてる! 手を緩めるな!」


 男が叫んだ瞬間、その首が飛んだ。横にいた男がその血煙に目を奪われている隙に、今度はそっちの足が千切れる。

 一瞬の出来事だった。降下した魔獣がぐるりと身をよじり再び上昇すれば、後には人間だったものの残骸が散らばっている。残ったのはジャコ一人。

 あまりにもあっけない幕切れだ、そうジャコは天を見上げる。大きく旋回し、改めてこちらに狙いを定めた魔獣が瞳に映る。

 為す術もなく、運命に委ねるようジャコはその瞼を閉じた。



 ――痛みはある。だが意識もある。

 ばきばきと馬車が砕ける音と風切り音が響き、支えを失ったジャコの体が一瞬宙を舞う。

 なけなしの悪あがきだった。目一杯に手を広げ指先に触れたそれをがちりと掴む。あとはもう、ただひたすらにしがみつくのみだ。揺れようがぶつかろうが怯むことなく、命の残り全てを振り絞るかのように全身に力を込めた。

 視界の端に映る赤い雫は己のものか、それともこの巨躯から滴るものなのか。気が付けば地面は遥か下方にあった。

 羽ばたく魔獣と共に空にいた。しがみつく柱の様なそれは魔獣の足であろう。規則正しく上下に揺れるなか、最果ての景色が眼下に広がっている。

 正面に見える谷はうずたかく、その上部は未だ見えない。足元で蠢くのは見覚えのある馬車と幾人かの人間。四足の獣にいたぶられているようだった。



 途切れそうになる意識の中、それは聞こえた。

 谷の奥から伝播する空気の震え。音の様な声の様な、空の嘶きだった。どこまでも遠く鳴り響くその音はジャコの耳の奥にこびりついて離れない。

 音に浮かされるままに流れ着いたそこは、最果ての町と呼ばれる場所だった。

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