夢の終着点
階段から這い出たジャコの視界が再び明るさを取り戻す。
焦げ跡の残る地面にふらりと降り立つと体を引き摺りながら、靡くシライトを掻き分け一点に向かいずるずると歩き出す。
体中が悲鳴を上げている。
痛みに侵食された肌は黒く爛れ今にも剥がれ落ちそうだ。しかしそれに気を回す余裕などない。
(まだ……だ、この先には――)
途切れそうになる意識をその度に痛みが引き戻し、無心にその地を目指す。
(そうだ、エリクシアが……あ、る……!)
一縷の望みを託しそれへと手を伸ばす。掴んだのは細い糸だ。己の全体重を預けながら力任せに引けば――僅かな抵抗を感じた後にぶつりという音が聞こえ、同時に支えを失った体が勢いよく地面へと投げ出される。
ごろりと天を仰ぐように草の上に横たわると視界に白い線が躍っている。続くように赤い雫が列をなし弧を描くとやがて重力に従い、ジャコの周囲へと一斉に降り注ぐ。
ぱしゃん、ぱしゃん。
地面へ木の幹へ当たる度に雫を覆う薄皮が弾け、辺りに真紅の水滴が跳ねる。
ぱしゃん!
ジャコの体で弾けた飛沫を黒く滲んだ肌が受け止め、しゅわりと音を立てる。
痛みは感じない。
目を閉じ成り行きに身を任せれば、熱を帯びた体に次々と落ちる水音が溶けていく。
しゅうしゅうと鳴っていた音と共に肌の疼きが消えた頃、ゆっくりと瞼を開き上体を起こす。泥に塗れてはいるが、健康的な色を取り戻したジャコの姿が森の中に佇んでいた。
◇ ◇ ◇
「無事……はは、ざまあみろ」
先程まで瀕死だったのがまるで嘘のようだ。
痛みはまるでなく軽快に動く身体を確かめ、ジャコは悪態をつく。
誰に、いや何に対してだろうか? 明確な敵がいるわけではない。強いてあげるなら井戸そのものに対してか。悪意で満たされ、侵入者を見舞う理不尽な暴力。その一つに打ち勝ったのだと思うと自然に口から零れた。
とは言え。ジャコを癒やしたエリクシアもまたこの井戸のもたらす恩恵なのだ。
未だ多くの赤い雫を携えたシライトノキの親玉、マザーツリーを苦々しく見上げる。垂れ下がる無数のシライト。連なるエリクシア。その元を辿れば白く太い幹へ繋がり、やがてそれは束となり根元で無数の瘤へと集約される。
どくん、と脈打つのは己の心臓かそれとも――。
ジャコは白い幹が結合する瘤から目を離すことが出来ず、じっと凝視する。
どくん。また跳ねた。
今度は確実に目撃する。脈打っているのはこの白い瘤だ。ジャコ程の大きさのあるそれが静かに拍動している。……まるで生きているかのように。
瞬間とくん、と震えたのは己の心臓だろう。
(どうせろくでもない事だってのは分かってんだよ)
これまでの経験で散々に思い知ったジャコは忌々しく睨み付ける。
――それでもだ。真実を確かめずにいられない。それは単なる好奇心なのか、はたまたこの地へ辿り着いた者としての責務を感じているのか。
意を決し、腰に提げた短剣を手に取ると白い樹皮へと一思いに突き立てる。節目模様に沿って立てた刃は驚く程抵抗を感じず、するりとその身に入り込む。根元まで深々と突き刺さった剣に力を込めれば分厚い樹皮はあっさりと引き裂かれ、その奥に隠されていたものがずるりと吐き出された。
「っ……!!」
白日の下に曝け出されたそれを前に、ジャコは反射的に目を逸らし口を押える。
「にん……げんっ」
叫びたい衝動を抑え込み、宥めるよう少しずつ息を吐きだす。
そりゃあ今までだってその片鱗を見て来た。魂であったり骨であったり、非業の最期を迎えた者たちの末路を知っていたはずだった。それにしたってこれは――。
直視することを忌避しながらも横目でその姿を確認する。
性別は……分からない。衣服であったと思わしき布が纏わりついた肌はどろどろに溶け、鋭い異臭を放っている。骨ばった身体のいたるところに白い糸が食い込むように絡みつき、髪の抜け落ちた頭頂から伸びるひと際太い糸が本体であろうシライトノキへと続いている。
(寄生、いや木に取り込まれてるのか)
まるで骨と皮以外の全てを吸い出すかのよう、どくどくと脈打つシライトは内部が透けてほんのり赤く色づき――その色が行きつく先に思考が至る。
(まさか、エリクシアの成分は)
己の身を二度生死の縁から拾い上げた正体に戦慄する。躯となってなお弄ばれるその光景は悪夢でしかなく、最悪の最期だと――。
『……っ、…………』
「⁉」
震えるような声ともつかぬ音に、はっと顔を上げる。
まさか、終わってない……のか?
汚濁した体組織に塗れ糸に捕らわれたその顔を覗けば、途端に喉の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。
「う……っ、お、ええええ!」
胃の中に残るものをすべて吐き出してなお、ジャコは嘔吐を繰り返す。それは嫌悪と呼ぶには生温いほどの感情で、己の体に取り込んだエリクシアを一滴残らず排出するなど不可能だと分かっていても止めることが出来ない。
さぞかし無念であったろうと勝手に思い込んでいた。それはジャコの独りよがりだったのか。
元は人であったろうそれの、濁った瞳が宙を彷徨い口の端が僅かに揺れ動く。その表情は苦悶というよりは恍惚に近い。
望んで得た結果だとでも言うのか? これが!
冒涜的な仕打ちを前に、嫌悪の中から湧きあがるのは怒りの念だ。
「俺が終わらせてやる」
ひとしきり吐いた後、立ち上がるとジャコは鞄の中から火打石を取り出す。
確か木に繋がったままの糸は燃えないんだったな……と思い出し先に短剣を構え、既に人とは呼べなくなったものの頭から伸びるシライトへとあてがう。
が、断ち切ろうと力を込めるその腕はピクリとも動かない。
「なっ⁉」
気が付けばジャコの右腕には無数のシライトが絡みつきその動きを封じている。
「コイツら、マジか!」
それまでただ宙をたなびくだけだったシライトがジャコへの敵意を露わにし、意思を持つようにぐるりと取り囲んでいる。牽制するように見合う中、包囲された輪の中で人の形をした躯だけがびくんびくんと体を震わせ笑みを漏らす。
「っ舐めんじゃねぇよ!」
動き出したのは同時だが、ジャコの方が僅かに早い。封じられた右手に握る短剣を素早く左手に持ち替えると四方から伸びるシライトをばさりと薙ぎ払う。なまくらであっても相手は糸だ、あっけなく切り落とされ地に落ちる。
右手に絡む糸を同じく切り捨て短剣を利き手に持ち替えると、今度こそ躯に繋がるシライトを切断する。ばたりと倒れる躯は笑みを張り付けたまま何も語らない。次々と襲い掛かるシライトを躱しながら火打石で火花を落としてやればたちまち炎に包まれ、その表情すらもう見えない。
「燃えちまえ、こんなクソみてーな森全部!」
ジャコの叫び声は立ち昇る火柱に呑まれ、かき消される。
短剣を降り、シライトに火を放つ。ひたすらにそれを繰り返せば炎は伸長を続けジャコの望みを叶えて行く。
無心に剣を降り続け、前へ前へと歩みを進めた。
◇ ◇ ◇
森を呑み込むオレンジ色の光は縦穴へと漏れ出し、井戸内に吹き溜まる闇を幾分か薄めている。
揺らめく明かりに浮かぶ螺旋階段をひたすらに上り続け、ジャコは縦穴の外へとようやく降り立った。
流れる空気が井戸を取り巻く森から草花の香を運び、ここが地上である事を実感する。
たった一日。
それだけの時間しか過ごしていないはずのに何年分もの疲労が蓄積している感覚だ。
だがここで終わりではない。見上げれば周囲は白い霧に覆われ辺りは不自然な程に植物が茂っている。――まだ悪夢は続いている。
(この先は星守りの案内もない場所だ。どんな危険があるかも分からねぇ)
だからといって立ち止まるわけにはいかない。目指すべき場所も不明なまま、もと来た方向を思い出しながら道なき道を行く。
木立を抜け草原を越え一刻ほど歩いたころ。ジャコの進路がぷつりと閉ざされる。
目の前に聳えるのは切り立った崖だ。見上げればどこまでも高く続く壁は霧の中へと消え、横を向けばまるで城壁のように連なり、やはり霧の中へと消えていく。
(確か気絶から起きた時に高いとこから落ちて来た感覚が残ってた。だったら――)
目的地はこの上だ。
意を決し、岩肌へ手をかけると身軽な身体を器用に引き上げていく。この崖を登り切れば逃げられる。その一心で手足を動かし続ける。
しかし登れども登れども崖は続き、終わりが見えることはない。気付けば上も下も霧に覆われ最早己の現在位置すら分からない。
いつまで続ければいい? そもそもこの崖に終わりなんてあるのか?
垂直な崖を登り続けるのは容易な事ではない。体力の底が見え始めジャコの中に焦りが膨らむ。
(井戸の中での災難はすべて星守りの忠告通りだった。なら外に出られないって言葉も……)
芽生える弱気を払うように、必死に頭を振る。
(いいや、諦めてたまるか! 俺は――)
痺れる手を無理やりに突き出す岩へと伸ばしたその時。
びゅうと鳴る風切り音がジャコの背を撫で、反射的に振り向いた先。霧の中にゆらりと影が躍る。
「⁉」
魔獣かと身構え短剣に手を伸ばすが、何やら様子がおかしい。
不安定な体勢のまま見守れば、やがて姿を現したのは……何だ? これは。
「触……手⁉」
そうとしか表現できない。
長く伸びた緑の、鞭のようにしなるソレには無数の突起が並び、それぞれの先端に透明な水泡を纏っている。
驚愕の表情を浮かべるジャコをその突起に映す触手はまるで意思を持つように、その身をくねらせ獲物へと襲い掛かる。
「ふざけんな! ここまで来てっ!」
接近するそれを短剣で討ち払えば次の瞬間、ジャコの視界が激しく揺れる。
逆さまになった世界に飛び込んできたのは霧の中にひしめき合う数えきれないほどの触手の群れだ。その一つに片足を絡めとられ、逆さまに吊るされた体が空しく宙を泳ぐ。
既に崖は目視できず、全方位を覆う白い世界の中。長大な触手の所業になす術もなく、しかし無抵抗でいることも出来ずジャコは必死に藻掻き足掻く。
「放せ! くそっ、そんな……っ!」
白い世界が突如霧散する。
宙に吊られたままのジャコの視界が不意に開け、飛び込んできた光景に言葉を失う。
霧の合間に現れたのは眼下に口を開ける大穴、その周囲を取り巻く緑の大地。さらに外側へと目を向ければ岩のような壁がそそり立ちその上部を極彩色の巨大な弁が幾重にも飾り立てている。
ジャコ達人間が『星の井戸』と呼ぶソレは見たことも聞いたこともない、しかしながら記憶にあるものと驚く程に酷似している。
「食虫、植物」
目に映るすべてが、ひとつの巨大な植物なのだと理解する。
これが『星の井戸』の正体。
聳える岩壁はこの花の外皮で、井戸だと思い込んでいた縦穴は獲物を捕らえ食す袋。
縦穴の周囲から伸びる、ジャコを吊るした触手がゆっくりと花の中心部へと移動する。それは幼い頃に見た、手の平大の食虫植物が蟻を捕食する様と同じ動きだ。
縦穴の真上でその動きが静止すると、足首にかかっていた力がするりと解ける。支えを失った体はそのまま重力に従い、必死に遠ざかろうとしていたその場所へと落ちていく。
(――死にたくない)
声にならないその言葉は、絶望と共に闇へと吸い込まれていった。
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