悪夢の始まり 2
勢いよく螺旋階段を駆け上がるとジャコは足を止めずにそのまま上層階へと続く階段を目指す。
暗いトンネルのような通路を一足飛びに駆け上がれば、視界には再び光が戻ってくる。懐かしいというにはあまりに短い、つい先ほど通り抜けた階層だ。
立ち並ぶ水晶のような柱が変わらず七色の光を美しく瞬かせ、再びまみえた光景に思わず足が止まる。下層での出来事が一瞬頭から離れたおかげだろう。ジャコの中に残っていた僅かな理性が首をもたげ、からくも息を吹き返す。
後ろを振り返り階段の下を窺ってみるが脅威が迫ってくる様子はない。改めて前を向けば先程まで揺らいでいた世界は地にどかりと根を下ろしており、安定した景色を前にほうと胸を撫で下ろした。
とはいえこれからどうするか。
現実を突きつけられ目的を失ったジャコは改めて己の行く末を考える。
「もちろん、この井戸からの脱出だ」
決意を確認するように、はっきりと言葉にする。
星守りはこの井戸から出る術はないような事を言っていたが、全てを真に受ける道理はない。事実、ジャコは今こうして最下層を脱し自由に動くことが出来ている。
だったら迷う事などない。星守りなんて頼らずとも自らの力で抜け出せばいいだけだ。
頼らずとも――いや、頼れないが正しいのか。頭をよぎるのはジャコを真っ直ぐに見つめる若草色の瞳だ。
未だ熱が残る両の手の平へと意識を向ければ微かに震え、細い首を絞めつけた骨ばった感覚が鮮明に蘇る。放した時には確かに温もりが残っていたが、その後の事は確認できていない。……アイツは無事なんだろうか?
罪悪感に震えるも、一方では己の行為に対する正当性を主張する。
(いやあいつは人間を装った化け物なんだ、襲い掛かってきた敵を返り討ちにして何が悪い)
――自分は何一つ間違ったことをしちゃいない。そう言い聞かせるように手を握り込み、ぐっぱっと開いてみれば不快な温度はもう感じられない。
……よし、行ける。こんな場所からはとっととおさらばしてやろうと、ジャコは独り上層への道を進み始めた。
「カガミノカイロウ、だったか」
それがこの層の呼び名だったなと独り言ちる。
周囲へと注意を向けながら早足で進めば、黒ずみ薄汚れた少年の姿がいくつも追いかけてくる。
(ちっ忌々しい)
獣のように身を屈め安定しない歩幅でゆらゆらと体を揺らしながら不格好に進む、鏡に映る己の姿は実に滑稽である。
無様に敗走するジャコをまるで嘲笑うかのようなその仕打ちに思わず舌打ちするのも無理はない。
(構うもんか。こんなもんはただの石くれだ、
意思すら持たないに無機物に憤っても無駄でしかない。――いや、そうだろうか?
ふと思い立ち、足を止める。
(腹立たしい事には変わりねーが、コイツきっとは地上じゃ未知の鉱物なんだろ? だったら……いい金になるんじゃないのか?)
側に立つ水晶柱を覗き込めば、忌々しい画を映しながらも美しく煌めく。
そうだ、たとえ井戸の水に願いを叶える力がないとしても宝は実在するんだ。これさえ持って脱出すりゃ……一夜にして大金持ちじゃねーか。
己の内に湧き上がる欲望を乱暴に掬い上げれば、応えるように鏡の中の顔がへらりと薄っぺらい笑みを浮かべる。
そうは言ってもこのバカでかい柱を持ち帰るのは流石に無理だ。どこまでも高く伸びるそれを見上げていた視線を戻し、辺りをきょろきょろと見まわせば――足元や壁を覆う岩肌には持ち帰れそうな大きさの結晶がそこかしこに生えている。
こりゃあいい。採り放題だと手近な一つに手を伸ばし、触れた時。
ジャコの全身にぞくりと悪寒が走りぱっとその手を引っ込める。この感覚、不快さには覚えがある。それもつい今しがたの出来事だ。
浅い記憶を弄れば答えはすぐに見つかる。
「コイツは、あの井戸の水の不快な声と同じ……?」
あの水を目にした時に頭の中に大量に流れて来た数多の意識、生者を妬み恨み引きずり込まんとする悪意の波。この水晶へ触れた指先から流れて来た感覚は、随分と弱々しく感じたが間違いなく同じものだ。
何でこの水晶から? ……何か、とてつもなく嫌な予感がする。
しばし考えた後に導かれる一つの推論。もしこれがあの水と同じもの、例えば結晶化したものだったとしたら――そこまで考えて息を呑む。つまりは
鏡面を覗けば変わらず黒髪黒目がこちらに顔を向け……ぐにゃり、と口を歪める。
「ひっ⁉」
瞬時に飛びのくとジャコを囲む幾人ものジャコの姿が一斉に中央を向く。
己の顔であってそうではない何かが歪な笑みを張り付けながら、緩慢な動作でこちらへと手を伸ばす。まるでジャコを求めるように。
「やめろ! 来るんじゃねぇ!」
懇願するように声を上げ逃れようと走り出すが、それらは鏡の中からこちら側へ来る気配はない。出ることのできない鏡の牢獄から這い出ようと必死に藻掻いているだけだ。
「っ俺はテメーらの仲間になるのなんて御免だ!」
近付くことも出来ずにただただ蠢く虚影を置き去りにし、カガミノカイロウを後にした。
◇ ◇ ◇
再び階段を駆け上がると辿り着いたのは光る花園――チョウノラクエンだ。あれほど美しく思えた景色だが今となっては不気味さしか見いだせず、最早何の感慨もない。
「こんなとこに長居する気はねえ。さっさと抜けちまおう」
下層での出来事を思えば、おそらくここも碌なことにはならないだろう。そう察したジャコは次の階段へ向けて最短距離を目指す。
とはいっても、流石に階層の中央に口を開ける縦穴を跳び越すことはできない。従って穴に沿うようにぐるりと回ることとなる。それでも行きで通った花園の中を蛇行する獣道よりはずっと短い距離だ。
優先すべきは速度だと、光る花を踏みつけるように道無き道へと分け入った。
瞬間、ジャコの視界が白に染まる。
何が起きたのか。理解できずに身を固くしているとやがて周囲に色が戻り、世界を染めた白の塊――これは光か?――が目の前を通過し上方へと昇って行くのが見える。
「蝶……? 光ってたのは花じゃなくて蝶だったのか」
ひらひらと天に舞う光を見上げて理解する。足元を埋め尽くしていた光る蝶が
薄暗い空気に包まれた中、残ったのは黒い台地だ。蝶が去った跡に花や植物の類は見られず、なだらかに広がる地面には無数の黒い砂利のようなものが敷き詰められている。
どう贔屓目に見ても心躍る景色ではない、そう眉根を寄せた所でジャコは思い出す。
『触れることを勧めない』
光るソレについて、確かに星守りは言っていた。背中に冷たい汗が流れ体中に警鐘が鳴り響く。……迂闊だったと悔いても今更だ。先に見える上へと続く階段への扉を目指し駆けだす。
黒い砂利は思いのほか軽くまた不安定で、足元を乱し非常に走りにくい。が、そんなことは言ってられない。構わず進めば一歩踏み切る度に宙へと蹴り上げられ、舞い上がった欠片がジャコの後方でからからと乾いた音を鳴らしている。
光源を失い薄闇と化した地面を無心に走り続ければ、やがて出口が目視できる距離まで至る。
最後まで油断するな――そう気を引き締めた直後だった。ジャコの後方で、己以外の何かが音を鳴らしていることに気付く。
ジャコが鳴らす砂利の音に紛れて聞こえるのは同じく砂利がぶつかり合う音だ。薄い金属を転がすような特徴的な音であり、ひとつひとつはか細く弱々しいのだが何より数が多い。それが近付いてくる。
振り返り背後を確認する余裕はない。迫る音から逃れるよう速度を緩めることなく進むが、空しくもすぐにその正体を視界に捉えることとなる。
――ヂュ、ヂヂヂ……ッ!
砂利音に混じって聞こえるのは大量の鳴き声か。手のひら大の小さな獣の大群が、砂利をまき散らしながら背後から押し寄せ、躱し――通り抜けていく。
獣の波はジャコに目もくれず足元を過ぎ去り、その後塵を為す術もなくただただ見送る。
「鼠かよ……くそっ、びびらせやがって」
不意の出来事に呆然としながらも、ジャコへ危害を加えるものではなかったと判明するとほうと胸を撫で下ろす。
確か往路でも見かけた鼠だ。ごわつく毛並みにずんぐりとした体躯の不細工な生き物に一瞬蔑みを抱くが、こんな環境の中で逞しく生きる姿は今のジャコにとっては希望の光にも思える。
(そうだ、俺だって負けてらんねぇ)
一つ息を吐き、いつの間に止まっていた足を再び上げれば。鼠たちが散らしていった黒い砂利が体のあちこちに引っかかっているのに気付く。
乱暴に掃いながらひと際大きな塊を手に取ってみればやはり軽い。棒状の、中が空洞化してそうな黒いそれは一見すると木炭にも見える。だが形が違う。緩やかに弧を描き端に瘤を作る形には……思い当たる物が在る。
(骨、だよな。太さ的にさっきの鼠の物とは思えない。まさか、人間の?)
そういえば、と先刻に見た鼠は何かを咥えていた事を思い出す。ここはヤツらの餌場なのか?
仮にこの骨が人だったとしてもジャコにそれを責める権利はない。ヤツらだって生きるために必死なのだ、その行為を誰が咎められよう。
「だからこそ、俺だって」
喰われる側になるのは御免だ。
こうはならない。そう決意を込め手の平に乗る黒い骨へと視線を落とす。――その瞬間。
「っ痛!」
手の平にひりつく痛みが走り思わず骨片を手放す。何事かと目を凝らすとそれは徐々に見えてくる。黒い骨から滲み出る黒い靄。
気付けば一帯を埋め尽くす黒い骨全てから湧き出す黒い靄が、たちまち床全域に立ち込めるとそのまま足を濯ぐように領域を広げていく。
「骨から出てる、これは……毒か⁉」
早まる拍動に合わせて疼くじくじくとした痛みが靄の触れる足先から這い上がってくる。
やばい、さっきの鼠共はコイツから逃げていたのか! 察するや否や、とうに姿が見えない同志を追うようジャコも走り出す。
黒い靄は獲物を狙う獣の如く、その嵩を増しながら生あるものへと牙を剥く。すでに胸元までが靄に呑み込まれ、痛みが全身を駆け巡れば最早前に進んでいるのかも分からなくなる。
それでもジャコは走るのを止めない。
靄に埋もれながら視界の通らない中へと腕を伸ばし、ノブを思い切り引くと目の前に開けた新たな暗闇へと転がり込む。
追いすがる魔手を断ち切るように扉を閉め、未だ絡みつく靄を引き摺りながら上への階段を這い進んだ。
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