悪夢の始まり 1

 毒。

 毒って言ったか?

 散り散りになった思考をかき集め、ジャコはその単語だけを何とか理解する。理解はしたが、到底受け入れられるものではない。


「何……言ってんだよ。はは、また得意のおふざけか? 俺をからかおうったってそうは――」


 からからに乾いた喉から否定の言葉がざらりと零れる。毒だなんて信じられるか。信じてたまるか。そう己へと言い聞かせるように。

 それは即ち心の底では真実であると認めているようなものだが、ジャコは必死に拒絶する。


「私はふざけるのは嫌いではないが、嘘は言わないよ」

「黙れよ!」


 分かっている、星守りはいつだって真実しか口にしなかった。だからこそ聞きたくなかった。

 両の手でしっかりと耳を塞ぎその悪魔のような言葉の侵入を防ごうと試みるが、内側で繰り返し木霊する星守りの声が強く大きく反響するばかりだ。

 その声をかき消さんと、さらに内から声を被せる。


「っだって、言ってたろ⁉ この、井戸の水を飲みゃ願いが叶うって……っ!」

「それは事実ではないな。ヒトの子らが勝手に喧伝しているだけだろう、私の与り知るところではないよ」


 凛とした声で語られる言葉に慈悲はない。力の抜け落ちた腕が地に触れ、ジャコはがくりと項垂れる。


(ふざけんな、ここまで来て無駄足だったってのかよ! どこのどいつだよっ、こんなクソみてーなデマ広めやがったのは)


 誰が? そこまで考えて、思考がふと中断する。

 そんなデマを、そりゃあもちろん過去にここを訪れた探索者シーカーだろう? 何のために?

 …………

 混乱する思考を掻きまわす中で、未だ謎であったそれが浮上する。


「俺以外の、ここまで来た探索者は……どこへ行った?」


 ジャコよりも先に井戸へ辿り着いた者たち。同じようにこの水源を求めたであろう彼らの消息は未だに不明だ。

 彼等はこの水が毒だと知っていたのか。知ったのち、どうしたのか。


「ずっといるさ。すぐそばに」


 相変わらず星守りの言葉は分からない。いや……知ってはいけない、そんな警告がジャコの体中に発せられる。やめろ、それ以上言うな。


「ジャコには聞こえているのだろう、彼等の声が」


 その言葉はジャコの警戒をあっさりとすり抜け現実を突きつける。少し前まで己の頭の中にけたたましく鳴り響いていた声、あるいは意識か? その正体を。

 あの声が聞こえだしたのは……そうだ。最下層に着いて、水面を覗いた時からだ。


 『お前も早く来い』『仲間に加われ』


 いくつもの重なり合う意識がジャコの中へと侵入し、まるで袖を引くようにそこへと駆り立てた。

 今では驚く程にしんと静まり返る、その足元へと視線を落とす。


(ここに探索者が――)


 この井戸の水に彼らの魂が溶け堕ち混ざりあっている。それが真実だと理解してしまった。

 あれほど美しいと感じていたのに、煌めく水面には今は不気味さしか映らない。一片の濁りもない透き通る水に忌々しさと侮蔑を向けてやれば、怨嗟の声が再び沸き起こりジャコへと牙を向ける。


「耳を貸すなよ」


 それも一瞬だった。ジャコを守るよう牽制する星守りの声が辺りへと響けば、再びの静寂が訪れる。どうやら探索者の亡霊も星守りには敵わないようだ。ジャコが思う以上に彼女の存在は影響力があるのだろう。

 目の前に立つ一見して可憐な少女。だからこそ、この井戸内に佇む姿は異様とも言える。

 危険な道の案内を難なくとこなし探索者の亡霊をも黙らせる。彼女が、星守りこそがこの井戸における最大の謎である。ジャコはそう確信した。


「……何が目的だ?」


 探索者を見殺しにしてきた星守りはまた、ジャコの敵ではないのか? なぜ毒だと知った上でここまで案内し、そして助けたのか。星の井戸がジャコに手を貸す理由とは。ジャコに何を求めるのか。

 様々な問いを並べ解答を予測してみるが――


「求めることなどないよ。そもそも、この井戸は一度落ちたら戻る術はない。ならばこそ余生は楽しくあるべきだろう?」

「何言って……?」


 返ってきたのはあまりにも想像だにしない内容だった。


(一度落ちたら戻れない……余生?)


 ジャコは頭の中で星守りの言葉を何度も反芻する。だがそれが消化される気配は一向にない。


(ここから出られない? それはつまり、この先一生井戸の中ってことか?)


 幾度繰り返そうと疑問符が取れることはない。当然だ、それは実質の死刑宣告なのだから。受け入れられるはずがない。


「待てよ、……っじゃあ何のために俺を助けた? 死なせないように守るって矛盾してるだろ!」


 おかしいだろ。だから何か特別な理由が、あるいは何かしら生還する術が隠されてるはずだ、そうだろ⁉


「何も。悠久に身を置く井戸からすれば、ヒトの子が今死のうが百年先に死のうが大差などないさ」


 そんな淡い期待はいとも簡単に踏みにじられる。星守りは真実しか口にしない。

 それでも言い縋る。ジャコに出来ることはそれしか残されていないのだから。


「毒で死にかけた時だって薬を飲ませてくれたし、井戸の中にある物だって好きにして構わねーって!」

「来訪者の要望に応えるのが案内係である私の役目だからな」

「じゃあ井戸の外に」

「それは無理だ」

「っ」


 吐き出す言葉は尽き果て、静寂が辺りを包む。

 本当に無理なのか、手はないのか。確かにこの水に命を溶かした探索者は数多といるのだろう。だからといってそれが全員だとは限らない。……だというのに、帰還者は誰一人と確認されていないのだ。つまりそれは、星守りの言葉が正しいと言うに他ならない。


「それじゃあ俺は何のために……ここまで来たんだ?」


 『星の井戸』の逸話は嘘であり、入ってしまえば外に出る事すら叶わない。何一つ手に入れることも出来ずただただ失うのを待つばかり。無様に藻掻くさまはまるで道化だ。今までの優しさはすべて演出だとでも言うのか? さぞや星守りは楽しんだのだろう。

 自嘲に口を歪め、乾いた喉から息を吐き出す。


「そうか、ジャコは井戸に願いをかけに来たのだったな。ではジャコの望みとは何だ?」


 不意に星守りが問う。

 もちろん「死にたくない」ではない。それは死ぬことが前提となった望みだからだ。じゃあ? とジャコは改めてその問いに意識を向ける。

 星の井戸の存在を証明する事?

 名声を得る事、歴史に名を残すこと、財宝を手にすること。他にはうまい酒に食い物に――

 あれこれと浮かんではくるが、なにひとつ自分の中に留まることなく消えてゆく。


(俺の望むことって、何だ?)


 なにも思いつかない。己の中がこれほどまでに空っぽなのだと、今更になって気付いてしまった。俺には――何もない。

 焦りを浮かべるジャコの様子を星守りは静かに見守っている。

 そんな居たたまれない空気を振り払うように、ジャコはひと際大きな声を上げる。


「んなもん、決まってんだろ! 名誉に金! それと――」


 ふと湧き上がるのは怒りの感情だ。それは最果ての町で過ごしていた時に毎日のように感じていた、理不尽な暴力のような感情。それがジャコの意識を支配し真っ赤に染め上げると、その矛先を目の前へ向ける。

 透き通る肌、美しい髪をなびかせ、ひらひらと身を守るには心許ない衣服を纏う――無防備のままに立つ美しい少女へと。


「……この井戸のモンは、何でも好きにしろって言ってたな?」


 ジャコの体がゆらりと揺れ標的に狙いを定めると、その細腕を乱暴に掴みぐいと引き倒す。華奢な体は碌な抵抗もなく床へと転がり、粗暴な少年にあっさりと組み敷かれる。


「ムカつくんだよお前、上辺だけ取り繕ってへらへらしやがって。本心では俺の事なんざどうでもいいと思ってんだろ!」


 仰向けに横たわる星守りは答えない。上から覆いかぶさるジャコはそんな少女の顔を覗き込み、そして視線を下へと動かしていく。


「俺の要望に応えてくれんだろ? だったらその体、好きにさせてもらうさ!」


 黒い瞳が仄暗く光り、はあはあと荒い息で肩を震わせながら少女を包む薄布を乱暴に剥ぎ取る。

 びりりと裂け中途半端に残った生地の隙間から白く艶やかな肢体が露わとなり、その緩やかな凹凸が曝け出される。

 が、何かがおかしい。

 違和感を感じながらも手を伸ばし、柔らかく弾力のある肌を弄る。温かくしっとりと手に吸い付くような感触に体の一部に熱が集まるのを感じるが、在るべき場所に在るべきものがない事に気が付く。


「何だ、交尾が望みか。しかし言ったろう、私はヒトを模しただけのものだと。再現されているのは表層のみだよ」


 動揺するジャコに告げるのは、それまでされるがままになっていた星守りだ。

 こんな状況だというのにその声は変わらず軽い。表情をピクリとも動かさずに語るさまはまるで感情のない人形のようだ。

 いや感情だけではない。星守りの言葉通り、その体には確かに起伏はあるものの双丘の頂に突起はなく、足の根本付近もつるりと肌で覆われ差し込めるような裂け目は見当たらない。

 これでは本当にただの人形と変わらない。

 現実を前に行き場のなくなった熱が、ジャコの怒りをさらに燃え上がらせる。


「黙れ、黙れよ!」


 目的地を失ったジャコの手が星守りの首へとかかる。ぎりぎりと力が込められていくも、やはり美しい顔は表情一つ変わることがない。


「この身体は呼吸をしていないから大して意味はないな。ああ、発声器官……は、喉に、あるか……ら、こ、えは……だせな……」

「ちっくしょう!」


 怒りも欲望も何一つ満たされることなく、ジャコの空っぽな心には絶望だけが膨らんでいく。腕に込められていた力はすとんと抜け落ち、もはやその瞳に星守りは映らない。

 糸の切れた操り人形のように手足を揺らしながらふらりと立ち上がると、一歩前へと進み出る。

 目の前が、世界がぐらりと傾いていく。

 いやそんなのは幻だ。抗うべく、何とか押し戻そうと必死に体へと力を込めるが、地に着く足はずぶずぶと沈み絡めとられるように世界と共に堕ちていく。

 堕ちる先に待ち構えるのは、どこまでも透き通った水だ。絶望に呑まれゆくジャコを眺め、嘲笑あるいは憐れみを向ける。


(やめろ、そんな目で俺を見るな! 俺はお前らとは違う)


 せり上がる恐怖に背を向けると、纏わりつく幻影を振り切るようにジャコは上への階段を駆け出した。

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