星の井戸 1

 星守りの少女の後に続き近付いたその虚は、大きな縦穴だった。

 覗き込めば内壁には柱の立ち並ぶ階層が確認でき、それが幾層にも積み重なって地上部分にぽっかりと口を開けている。底の方は暗く細部を窺い知ることはできないが、ぽつりぽつりと灯る光によりそこがただの虚空ではないのだと分かる。


「随分深いんだな」

「底までは道が通っている。降りるのは造作もないよ」

「へぇ……」


 通路があるってことは利用されてるって事か? 誰が……以前ここに辿り着いた人間?

 そういやさっきこの星守りも言ってたな、「お前たちヒトの子が星の井戸と呼ぶ場所」と。ヒトの子っていうのはどういう意味だ?

 聞きたいことは山ほどあるが、今は喫緊の問題を片付けねばならない。ジャコがそう考えるのと同時に腹の方からみすぼらし気な音が鳴る。


(最後にメシ食ったのっていつだ? くそっ、足がふらつく)


 冷静さを取り戻した頭がいつの間にか忘れ去っていた空腹を思い出していた。自覚した途端に先程までは問題なく歩けていた身体から無情にも力が抜けていく。

 背負っていたはずの荷物はない。この地に落ちて来た拍子に失くしてしまったのだろう。腰に巻いた小ぶりな鞄を弄ってみるも、ここに入れていた食料はとうに食い尽くしていたことに気付き思わず舌打ちする。


「さあここが入り口だ。落ちたら助からんだろうから、せいぜい気を付けることだ」

「お、おう!」


 不意に掛けられた声に顔を上げれば、先を行く星守りが井戸の中へと降りる階段に足をかけていたところだった。そして目につく傍らの蔦。

 井戸の中に垂れ下がるように伸びるそれは大きな葉を幾枚とつけ、その緑の隙間からは深い紫色の光沢がゆらゆらと覗く。たわわに実る丸くぷっくりと膨らんだ果実は見るからに瑞々しく、そして甘やかな芳香を漂わせジャコの意識を否応にも釘付けにする。


(めちゃくちゃ美味そう……こんなに生ってんだし、一つくらい問題ねーよな)


 そう頭で考えた時にはすでに彼の手は仕事を終え、もぎられた実は音もなく腰の鞄へと収納されている。

 手のひらに伝わる冷やりとした感触とずっしりとした重みが少年の食欲をさらに刺激し、瞬く間にもう幾つかの実が鞄に押し込められる。尚も狩らんと次の獲物へと手が触れた時に気付く。

 先程まで背を向けていた星守りがいつの間にかこちらに向き直っている。その視線の向く先は当然、蔦に生る果実を今まさにもぎらんとするジャコの右手だ。

 ばっちり見られている。やばい、これは――ぐるぐると思考が高速で回転しはじき出されたその答えは。


「いっいやこれは盗もうってわけじゃなくてだな! 美味そうだなーってたまたま手を伸ばしたらちょっと触れただけでっ」


 余りにも見苦しい言い訳である。どう見ても現行犯である。

 訝しむような星守りの視線が痛々しく突き刺ささり、ジャコは縫い付けられるように身動きも出来ずにその場で息を呑み込む。たらりと頬を伝う一筋の汗が冷たい。


「別に食べたいのなら止めはしないが――」

「マジか⁉ そんじゃ」


 星守りの言葉に弾かれるように再び息を吸い、そのままの勢いで手に触れていた実をもぎると思い切りかぶりつく。


「ヒトには毒だぞ」

「⁉」


 星守りの続きの言葉と共に口の中に広がる果汁が、ジャコの体の動きを止める。止まったかと思ったのも束の間、その内がくがくと揺れ出すと膝をつき不揃いな階段の上へ崩れ落ちるように転がる。

 ぶわりと大量の汗が体中から吹き出し視界はぐにゃりと歪んでいる。朦朧とする意識の中で縋るように、正面に立っているであろうその人へと手を伸ばす。


「く……すりっ、毒消しを――」


 ………………

 …………

 ……


「テメェっ、毒の実じゃねーか! 危うく死ぬとこだったぞ!」

「そうだな。しかし食の嗜好なんてそれぞれだ、口を出すのは無粋だろう?」

「いや止めろよ! 殺す気か⁉」


 階段に這いつくばりピクリとも動かなくなったジャコの口に星守りが毒消し薬をねじ込んで程なく。

 元の血色を取り戻した彼の盛大に喚く声が井戸の中に響き渡っている。


「ははっそうか。次からは気を付けよう」


 相変わらず悪びれない様子でにこりと微笑む星守り。その様子に呆れるように、怨言を散らしていた口が今度は大きな溜息を漏らす。ハハッじゃねぇよ。

 ……ああこれはきっと何言っても無駄なヤツだ。ここで俺がくたばろうときっと同じように笑うのだろう。現実離れした美しい容姿からジャコはそんな雰囲気を察する。根拠はない。

 コイツはきっと天使とか悪魔みたいな存在なんだ。別にそれでも構いやしない。俺の敵ってわけでもなさそうだし、だったらうまく利用してやるさ。

 立ち上がり手足を軽く動かしてみると、果実(毒)と薬を多少なりとも腹に収めたおかげか先程までに比べ幾分か体が動く。ありがたい事ではあるが二度とごめんだ。


「なあ星守り、何か食いモンねーのか? 毒じゃないやつ。出来れば肉がいい」


 遠慮する必要なんてないだろうと考えを改め、率直に要求を伝えることにする。元々遠慮していた節など微塵もなかったわけだが。

 そんな問いかけに星守りはしばし思考を巡らせ、やがて伏せていた瞳をジャコに向ける。


「ふむ、ならばノゾキアナの部屋へ行こうか」


 ノゾキアナ……一体何を覗くというのだろうか。

 微妙に怪しげな部屋の名を聞き眉をひそめていると、いつの間にか階段の上方に回り込んだ星守りがジャコの背を見下ろしている。


「その前にジャコ。その体にこびりついた悪臭を濯ぐべきだな」


 そう言い放つやいなや、華奢な白い足が振り向いたジャコの背を力一杯に蹴飛ばす。


「は? なっ……」


 思わぬ攻撃をくらいあっさりと体勢を崩せばジャコの体は階段を簡単に転がり落ちていく。その軌道の先に待ち構えるのは、壁沿いに穿たれた溜池のような小穴だ。

 ざぶんという大きな水音の中にジャコの姿が消えた後、ご機嫌に笑う星守りの声が辺りに響いた。

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