第47話 幸福にならなければならないという呪い
25年の新年にあたって思ったことです。
我々は幸せにならなければならない、という呪いにかかっているいます。幸せが何かという定義はまずおいておきましょう。とにかく幸せじゃないと生きた意味がない、そういう悪魔のささやきによってかえって生きる意味を喪失している気がします。
幸福度調査などという馬鹿な指標があります。幸福度は国連が定義した6つの指標でしかありません。項目とはGDP、困った時に頼れる人がいるかどうか、健康寿命、人生の選択の自由さ、他人に対する寛容さ、そして腐敗の少なさです。
それは国連が西洋的価値観で決めた幸福の定義でしかありません。特にGDPが高いことが幸せなんでしょうか?例えばですけどフィンランドをはじめヨーロッパ北部が幸福度が高いようです。こんなのは資源に対して人口が少ないだけです。これらの国は自殺率は高いし税金も高いです。徴兵もあります。
マイルドヤンキーという言葉が10年以上前に流行ったと思います。地元にのこって半径5キロ以内で生活が完結し、車でバーベキュー場にあつまり仲間同士で飲み食いするのが生きがいの人たちです。彼らは子供を作り、ファミリー命です。彼らは丸の内のOLより給料は低いでしょう。でも、幸福に見えませんか?本も読まないしニュースも見ない。だからこそ幸せな気がします。
無知だから幸せを知らないのではないのです。家族と仲間が幸福という定義をしているのです。もちろん、不幸な人もその中にはいます。離婚や喧嘩も派手でしょう。でも、彼らは幸福の形に疑問は持たないはずです。
いや、そんな貧乏な生き方は嫌だ、彼らの生き方に共感できず旅行もレストランもいけない人生に意味がないという人もいるでしょう。それはそれが幸せだと定義しているからです。
何が言いたいかと言うと、定義されたGDPイコール幸福という指標を根拠に、お前は不幸だという洗脳にかかっていませんか?という話です。失われた30年といいますけど、誰が何を失ったのか。単にGDPの成長率です。バブルの狂乱から抜け出して、文化的に生きるチャンスでもありました。エコノミックアニマルという言葉が当時あったそうです。そう、金の亡者だったんです。それなのにGDPの成長が止まっただけで、それをわめきたてて働け働けというから子供を作らなくなったのでは?
さらに、です。幸福という名の経済性を追求することで、比較が生まれます。比較すれば上がいます。それが強いストレスになっていませんか?むしろ、綺麗に分断した他人は他人の階級社会の方が生きやすく幸福なのかもしれません。自分の才能や能力はここまでだと、割り切った方が開き直って幸せを感じるかもしれません。
幸福は金をどれだけもっているかで比較すれば人間ナンバー1以外は全員不幸ですし、ナンバー1もナンバー1でなくなることで不幸になります。つまり、資本主義的な量的な幸福度というのは、全員が不幸になることです。
その中で幸せだと感じる欧州北部の人は、お前らは正しい。政府の言う通りの生き方をしていれば幸せなんだという洗脳がされて、恐らくその洗脳にかからない人が自死を選ぶか犯罪に走るのでしょう。そういう社会に見えます。言っては悪いですが、多様性を一番認めない社会です。
人類史において、数百億人ひょっとしたら千億人がこの世に生まれたでしょう。でも幸福を目指した人ってどれくらいいたんでしょうか。人間はまず生きる。そして家族を持つ。コミュニティの役割をこなす。その中に幸せを探す。幸せは年に1回の村祭りだけだったかもしれません。いや、生まれて1日で死んだ子供もいたでしょう。でも、その子は不幸だったんでしょうか。生きている意味が無かったんでしょうか。そうは思いません。彼が頑張って生きようとしたのなら、そこに意味はあったと感じます。
少なくとも地球の地質学的な話や種の寿命で言えば、人類は1億年どころか1千万年は持たないでしょう。その中で生まれた意味など考える必要はないし、幸福であるという洗脳にかかる必要もないのです。人間はそして生物は、遺伝子を残す営みを続けるマシンでしかないのです。たとえ百万年というオーダーの時間で99%の生命が滅びる、あるいは地球が滅びるにしても、確かにそこに営みがあったのです。
宇宙的な意味はなくても、私にとっては1度の人生です。そこで他人と比較して幸不幸などどうでもいいです。私は生きてここにいた。他人と比べて幸不幸合戦をしたことがないとは言いません。私も凡人です。欲望も劣等感も自尊心もあります。解脱して悟りを開いた僧にでもならない限り、そこからは逃れられません。
でも、タイムリープして生まれ変わって大金持ちや女性にモテモテの人生が良いかというと、私は多分今と同じ生き方しかできないでしょう。私が選択してい作った人生です。だから、私なんです。それが私の人生の意味になると思っています。
少し俯瞰して人として生まれて意味を考えれば、それは生きて子供を作る。それだけ考えて生きればいいんです。次の世代への責任はそれしかありません。たとえ子供が出来なくても仕方ないでしょう。それも運命です。でも、作らないのは、作る努力がないのは駄目です。それは生きている意味を放棄しています。ただ、それとて個人の自由意思で選択の問題です。異論は当然あるでしょうし、考えた上で子供を作らない選択をしたのならその人の人生を否定する必要はないです。
まず生きる。その中で余剰があって、好きなことができる時間がちょっとでもあれば、自分なりの幸福に感謝できるはずです。日本人は一度貧しくなって、海外から物が買えなくなって、生きる上での選択肢が無くなった方が幸せに生きられる気がします。
フェミニズムとポリコレをめぐる論争はなぜ醜いのか? @kuro_shiro_kuro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。フェミニズムとポリコレをめぐる論争はなぜ醜いのか?の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます