第24話 私的見解1 フェミ・ジェンダー

 あまりフェミニズム・ジェンダー論やLGBTQに対する個人的なスタンスを言ってなかったので、ここで頭を整理するために私見を述べます。


 私は、男女の生物学的肉体的な性別をしっかりと区別すべきだと思っています。性自認は精神の異常である。性指向・嗜好は性癖の一つである。これらの正常・異常の分別をきちんとした上で、機会平等を維持しつつ、人権侵害が無いように配慮する、という立場です。


 差別問題の比較として障碍者を考えればわかると思います。障碍者も健常者と同じ人権を持っています。ですが、じゃあ区別しないでいいかと言えば、もし目の見えない人に配慮せず、点字・点字ブロックや音のなる信号がなかったら?街中で白い杖を掲げている人の意味を誰も知らなかったら?これは、視聴覚障碍者にとってはほとんど「生きるな」と言われていることに等しいです。


 聴覚障碍者の手話を健常者が誰も学ばずに、スマホでいいじゃんと言い出したら?車いすのためのスロープがなければ?そう、配慮とは区別をきちんと認識した上でなされるもので、積極的に何が困っているのか?を取材・理解しないと対応できません。


 男女のどちらかにハンディキャップがあるという意味ではないです。違いを認識し区別しないと、機会平等、権利侵害が定義できず差別が野放しになるからです。


 また、障碍者対応も公共の福祉が許す範囲の制限があります。税金も人手も無限にあるわけではないです。どこかで折り合いをつけるべきでしょう。その折り合いの水準を測るためにも定義は必要です。肉体的にも精神的にも男女差はある、ということは大前提だとしたほうが、権利平等は進むと思っています。


 男女の肉体差について、江戸時代は公衆浴場は男女の区別がなかったとのことで「もう一緒でいいじゃん」でもいいんです。トイレだって結局女性は個室なんだから区別する必要はありません。そして、羞恥心というのは服を着て隠すから恥ずかしいのだ、ということです。

 ただ、それは価値観や羞恥心の時代背景を無視した対応です。ですので、排泄したり裸体をさらす場所は男女で区別した方がいいでしょう。性犯罪の抑止力になります。


 学校で身体検査をやる。体育の授業の参加者は男女で分ける。進路進学相談や修学旅行とかいろいろあるでしょう。こういう時に男女別の名簿になっていことには意味があります。ですがジェンダー論者は学校の名簿の男女分けにひどくこだわります。この点で単純なジェンダー論は全く意味がないと考えます。


 機会平等の実現こそ本来フェミニズムの目指すところです。選挙権が男性の高額納税者しか認められなかった時代とは違います。

 先天的・後天的にかかわらず男女の生き方は違います。それは出産・育児用の肉体を持つかどうかの差です。結果的にライフスタイルにも影響が出るし、遺伝的生物学的社会的な違いも現れます。薬剤師、看護師やCAになりたい比率が女性に多くなる。労働時間が短くなる。平均給与も家事分担の比率が男女で違うのは当たり前でしょう。


 「給与」というライフラインを男性が握っていることに対して生ずる不平等には問題があると思います。家の中に階級ができてしまっています。家父長制の否定や出産放棄はここに基づく理不尽が大きいと思っています。そこは是正すべきでしょう。本来、家計を握るのは主婦であり給与の担い手である男性が小遣いをもらうという形をとること、離婚率が低いことでこのバランスは保たれていました。

 男女の形式的な平等を推進した結果、夫婦の財布を別にしてしまったことで、この運用がなくなったのでしょう。これは本来の夫婦のあり方ではありません。これは、家制度の問題ではなくあくまで夫婦間の配分の問題でしかありません。

 そして、このバランスを崩したのが形式的なフェミニズムで、女性の立場を強制的に男性と対立概念にした結果、お互いが不幸になった気がします。


 夫婦別姓とか同性婚とかありますが、子供を作り子孫を増やすためのユニットが夫婦という考えなので、逆にそれ以外の行為・制度は結婚と定義しないでほしいと思っています。性欲で結ばれたユニットに税や年金で優遇措置をする必要はありません。もし優遇措置が欲しいならそういう制度を提案し、結婚とは別に考えてほしいと思っています。


 今、ここに自分がいるのは男女の営みを数十億年生物が続けてきた結果です。その中で子孫を残せなかった個体はおそらく膨大な数になるでしょう。自分が一人で今ここで生きているような身勝手なポリティカルコレクトネスは単なるわがままだと思っています。男女が性行為をすることで社会を維持し、それを前提とした社会が正常なのです。ただ、性指向・嗜好が異常だということで差別されるべきではない、ということです。


 嫌われても、それはそれこそ多様性・価値観によるものです。それは差別とは言いません。コミュニティの文化的・宗教的な背景から奇異な目で見られてもそれは受け入れるべきです。宗教・伝統と性的な指向が軋轢を起こした場合なら私は社会規範の維持・公共の福祉の要請から、宗教や伝統が優先すると思います。

 そのマインドを変える社会運動は否定しませんが、異常を正常ということではありません。そして男女の営みが子供を産むという生物的な事実がある以上、正常の定義は変わりません。


 それと、性的なコンテンツ問題ですが、私は「表現の自由」が民主主義にとっては生命線だと思っています。どんな理由であれ、公権力による検閲は禁止されなければなりません。もし、検閲が許されるとすれば国家の存続にかかわるような外部からの攻撃に対する防衛策としてのみでしょう。性的な表現が公共の福祉に反する場合は、もちろん制限される場所や時間に規制があっても仕方ないでしょう。ですが、性的なものの作成や開示する場を奪う行為はすべて排除されるべきです。



















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