翌朝、目が覚めると風は更に強くなり、大きな窓がガタガタと鳴る音で目を覚ました。

 時刻は8時。少々、寝坊してしまった様だ。昨夜、私は目をつぶると女将の事を何度も思い浮かべた。働き者で優しく美しく、そしてあのはにかんだ笑顔を何度も思い出した。

 私はそんな自分に少し驚いた。私は気づかぬ内に、こんなにも母という存在を求めていたのかと。それ故、優しく働き者の女将に理想の母親の姿を重ねて見てしまうのだ、そう考えた。

 私はいつも7時に置きて早々と食事を済ませるので、寝坊して女将や板前が食事の段取りに困っていないかと廊下へ出た。すると廊下の掃き出し窓の前に女将が立ち裏庭を眺めていた。

 私は「おはようございます。すみません、少々、寝坊してしまいました」と苦笑いしながら女将の横顔をふと見ると、女将は何故か物悲しい表情で裏庭を眺めているのだ。

 「どうしました?」と私が聞くと、

はっと気付いた様に女将は「おはようございます。お目覚めになったのですね。お食事になさいますか?」と訪ねて来た。私が「はい。頂きます」と答えると、また窓の外を眺めて、

「今日は時化しけになりそうですわ」と言い。悲しげな表情で、そっと目頭を人差し指で拭って調理場へと消えていった。

 私はその姿を戸惑いながら見送った。

(一体、女将に何があったのか?)

 私はいつもと違う女将のふと見せた悲しげな表情が気になった。

 その日は執筆していても、どうも女将の事が思い浮かんで何度となく手を止めた。

(私で良ければ女将の力になれないだろうか)。ふとそんな思いが頭をよぎった。

 夕食の折、女将の様子は、やはりいつもと違っていた。笑顔を作って懸命に働いているものの、その表情にはどこか悲しみの影が見て取れるのだ。

 私は意を決して、料理を運ぶ為に部屋へやって来た女将に言った。

「女将さん、一体何があったんです?私で良ければ聞かせて下さい」と。

 すると女将は、はっとした様に私を見て

「すみません。お客様にご心配をお掛けして。でも私は大丈夫ですから、どうぞお気になさらないで下さい」と、そう答える。

 私はそれでも女将のその胸の内を知りたくて「私は、こちらを訪れ女将に会ってまだ4日です。でもその間、私は女将、いや、雪乃ゆきのさんをずっと見ている内に、まるで母を慕う様な気持ちが芽生えたのです。だから私で良ければ雪乃さんのお力になりたいのです」と、心の内を打ち明けた。

 すると女将は突然、目に涙を浮かべると

「ありがとうございます。でもこれは羽村はむら家の問題、いえ、私が自分で解決するしか無い問題なんです。私は沢村さんのそのお気持ちだけで本当に嬉しいです」と、涙を指で拭うと笑顔でそう言った。

 私はそれ以上、踏み込む事は出来ず、

「私で力になれる事があれば遠慮なく仰って下さい」そう一言、付け加えた。

 その後の女将は何か先程までの物憂げな気持ちがすっかり晴れたように元気であった。

 食事後の挨拶に女将は「いよいよ明日は東京にお帰りですね。私はこの4日間、とても楽しゅうございました」と言う。

 それを聞いて私は「私も楽しくて、あっと言う間の4日間でした。しかし私はお世話になるだけで、雪乃ゆきのさんを楽しませる事など何もしていませんよ」と笑って言うと、

「いいえ、沢村さんはこんな至らない私が母親だったら良いのにと嬉しい言葉を掛けて下さったじゃありませんか。私はその言葉が本当に嬉しかったのです。私はこの歳まで一度も結婚する事無く、子供をもうけた事がありませんのに、時折ふと私に子供が居たらどんなに幸せな事かと思い浮かべる事があるのです」と、女将は答えた。どうやらそれで私に母だったらどんなに良いだろうと言われた事が、とても嬉しかったのだそうだ。

 私は「若い女将に、こんな二十歳も半ばの私が、母親などと言って失礼だろうかと心配しました。でも雪乃さんが喜んで下さったなら本当に良かった」と答えた。

 すると女将はまたはにかんで

「まぁ、またお上手ですこと」と言い、女将と私は二人で笑った。

 その夜は床に就き、私はこの4日間を振り返った。まだ4日というのに、私はもうこの場所に深い愛着を感じていた。

 この場所にずっと居られたら、どんなに楽しくて幸せだろうと。

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