次の日、私は朝から番頭と板前の仕事を取材させて頂いた。

 番頭の仕事は庭木の手入れに始まり風呂の掃除、そして壊れた家屋や設備の修繕など多岐にわたるという。板前の仕事も献立の考案、仕入れ、仕込みに料理等の全てを一人でこなしているそうだ。二人とも先代女将がこの民宿を立ち上げた時から努めていて、この民宿に対する思いは、正にひとかたならるものがあるという。        

 それは女将にとっても同じだろう。母である先代女将が亡くなり、遺されたこの民宿を若いながらも一念発起して支えてきたのだ。その思いは女将の仕事振りからして見て取れた。

 私は二人から取材して聞いた話をまとめるべく、裏庭の見える廊下に設えた椅子に座りペンを走らせていた。ふと先に目を遣ると、女将が裏庭に面したガラス窓を拭いている。着物の袖をたすきにかけて、その白く細い腕で懸命にガラスを磨いているのだ。

(世の中の母というものは、皆この女将の様に働き者なのだろうか……)。

 私はふとそんな事を考えた。私は産まれて物心がつく前に母を亡くし、母親の記憶という物が全く無いのだ。(母が居たら、この女将の様に優しく、よく身の回りの世話をしてくれたのだろうか)。そう思っている時だった。私の視線に気付いたのか女将が不意にこちらを向いて目が合った。私は少し狼狽した。

 いつの間にか私は女将に見惚れていたのだ。その様子を見て女将は「どうなさいました?取材の続きですか?」と微笑んだ。

 私は頭を撫でながら「いえ、実は私は物心がつく前に母を亡くしまして……」そう言うと、女将は「それはまぁ、お寂しかった事でしょう」と同情する様にそう言った。それに対し、私はつい心の内を口にした。

 「だから女将の様な美しい方が母親だったら、どんなに良いかと思いまして」と。

 すると女将はぱっと頬を赤らめて

「まぁ、私なんてまだまだ至らない所ばかりですのに……。お上手ですこと」とはにかんで、踵を返すと、そそくさと廊下の向こうへ去っていった。

 私はそんな女将を見て自分も恥ずかしくなった。(一体、私は何を言ってるんだ。こんな二十歳も半ばの男に母親だったら良いのになんて、言われて困るのも当然だろう)。そう思いながら部屋へ戻ると、海の見える掃き出し窓を開けて、冷たい空気で頭を冷やした。


 窓から夕日に染まる海が見える頃、私はペンを置きノートを閉じた。 

 記事の構成も出来上がり記事本文の執筆をしていたが、気分転換に私は海に沈む夕日を見ようと下駄を履いた。

 その日は少し風が強く、私は腕を組むように両手を半纏はんてんの胸に差し込み、手を温めながら海へと繋がる椿の垣根を通り過ぎた。

 防風林の前に来た時、ゴォォ……と風が空洞に響く様な音が聞こえてきた。

 私はそれまで聞いたことの無い音を耳にし(何の音だろう?)と音のする場所を探して、民宿の裏庭を音のする方へと歩いていった。

その音に段々と近付いて行く。

 ふと見ると、そこには今まで気づかなかったが、地面にこんもりと土が盛ってあり、その下に石造りの小さなトンネルが作られ、そこから地下へと続く階段があるのを知った。 

 入口には鎖が掛けられ、風の鳴り響く音はこの真っ暗な地下から聞こえてくる。

(この下に何があるんだ?)と私は腕組みしたまま中を覗き込んだ。しかしその中はとても暗く、階段が地下の暗闇に伸びているのが見えるだけで、何があるのかさっぱり見えない。

 その時だった。後ろから「如何なさいました?」と番頭に声を掛けられた。

 私が「この地下には一体何があるんです?」と聞き返すと、番頭は「へぇ、この地下室はもう古くて、その昔は貯蔵庫として使われていたそうですが、今は何にも使っていません。電気も無く真っ暗で、石の階段もあちこち崩れて危ないので、近付かない方がよろしいですよ」と教えてくれた。

 私はこれ以上の詮索は不要と、その場を後にして海へと夕日を見に行った。

 まさかその地下室に「あんな物」が潜んで居たとは、その時、夢にも思っていなかったのである。

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