翌朝、女将は予定通り10時に部屋を訪れた。「失礼致します。取材の件で参りました」       そうふすま越しに女将が声を掛ける。

「どうぞ」私が言うと女将は正座をして、襖をすっと開けると、お辞儀をして部屋に入った。「どうですか?夕べはゆっくりお休みになれましたか?」と私に聞く。「ええ、お陰様でゆっくり休ませて頂きました」私が言うと、女将は 「長旅でお疲れになっていらっしゃったんでしょう。海のそばで波音が気になってお休みになれなかったらと心配しておりました」と微笑んだ。

 確かに床に就き目をつぶると、まるで自分が砂浜に横たわっているかの様な錯覚を覚えたが、いつの間にかその波音を聞きながら吸い込まれるように眠りについた。

「いえ、大丈夫ですよ。私には逆に心地良く、しっかり休ませて頂きました」と答えると、

女将は「それはよろしゅうございました」と微笑ほほえみ「大した宿では御座いませんが、雑誌に載せて頂けるとの事で、私ども大変に嬉しく、光栄にございます」と言い、その後の私の取材に快く答えてくれた。

 女将の名前は羽村雪乃はむら ゆきの

和装をきっちり着こなした、年齢は40歳くらいの美しい女性であった。

 この宿となった古民家は築100年は経つといい、女将の祖父の代に建てられた日本の伝統建築であるという。女将の祖父は、この小さな漁村の親方を営んでおり、当時は大変栄えていたそうだ。

 祖父の亡き後、女将の父親が後を継いだが、若くして病で亡くなり、その後は女将の母が改装して民宿を始めたという。当時は女将の母親が中心となり、番頭一人と仲居がニ人、そして板前二人の6人で経営していたという。

 その母親も病で亡くなり、今は女将と当時から務めている番頭一人と、板前一人の三人で細々と経営しているらしいのだ。

 私は快く取材に答えてくれる女将の話を聞きながら紙にペンを走らせた。

 一頻りの取材を終え、私は女将にお礼を述べた。すると女将は「ここは海と漁港しか無い田舎ですが、今日はどちらかへおいでになるんですか?」と聞く。

 私は「はい。都会の喧騒を忘れるには最適の場所ですね。今日はこの旅館の外観や部屋から臨める海の景色や漁港の写真を撮る予定にしています」と答えた。すると女将は「どうぞ、お気をつけて言ってらっしゃいまし」と笑顔で答えて部屋を去った。

 私はその後、取材した内容をまとめると予定通り写真を撮る為、カメラと取材ノートを手にすると外へ出た。

 先ずはこの古くも立派な民宿の外観を数カ所撮り、建物脇の赤い椿の花をつけた垣根の間を通り抜け、防風林の向こうにある海へと出た。

 早春の海風は冷たく吹き付け、潮騒と共に波が浜へと打ち寄せる。私は目の前に広がる海の景色を写真に撮ると、潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 夕刻、一通り見所となる勝景な場所や漁港の市場を訪れて、写真を撮り取材を終えると、民宿へ戻って来た。玄関先では番頭が生垣に水をやっていた。「お帰りなさいまし」そう番頭に声を掛けられ、私も「只今、帰りました」と会釈をした。そして今一度、夕日の沈む海の景色を写真に収めるべく、垣根を通り抜けようとした時だった。横から「お帰りなさいまし。取材はいかがでしたか?」と女将の声が聞こえてきた。

 私がふと脇に目を遣ると、女将が勝手口の前にいて私に微笑んでいるのだ。

 私は「はい。お陰様で取材もうまく捗りました」そう答えると、「それはよろしゅうございました」と言い、女将は勝手口に置かれた酒瓶の入ったケースを重そうに持ち上げた。私はそれを見て「大変ですね。手伝いましょう」と言い、酒瓶の入ったケースを持ち上げ勝手口の中へと運び入れた。

女将は「まぁ、お客様にこんな事して頂いて申し訳ありません」と、至極申し訳無さそうに謝った。「いえ、こんな事なんでもありませんよ」私はそう笑って、「ちょっとこれから夕日の沈む海を写真に撮ろうと思いまして」そう言うと、女将は「それはよろしゅうございます。きっと素敵な写真が撮れますよ」と微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る