いそめ様

zero

 もう17年も前の事になる。

私、沢村良介さわむら りょうすけは当時、駆け出しのフリーの記者で「休暇に訪れたい大人の旅館•民宿」の記事を書くにあたり、取材の為にある小さな漁村の民宿を訪れた。都内から電車を乗り継ぎ、そのひなびた漁村の民宿に着いたのは、すっかり日が傾いた夕刻であった。

 私が玄関の引き戸をすっと開けると、

「東京からおいでの沢村さんですね。ようこそおいでくださいました」と、そろそろ私が着く頃と見込んで、女将が上り口に正座して、にこやかに出迎えてくれた。

 私は女将の、その至極丁寧な出迎えに感服し「こんばんは。女将さん、よく私が来る頃が分かりましたね」そう言うと、女将は「ええ。東京から電車を乗り継いでおいでとの事でしたので、そろそろお着きになる頃だと思って、お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」と、

私の手荷物を預かると、廊下を歩き部屋へと案内してくれた。

 その部屋の片面は全面ガラスの掃き出し窓で、そこからは防風林の合間に夕刻の海が一望出来た。更には海を一望出来る露天風呂まであるという。華美ではないものの美しく整えられた和室で、真ん中には年代物の木造りのテーブルが置かれていた。

 女将は私のコートを預り、衣紋掛けに掛けながら「遠方からのお越しで、さぞお疲れになったでしょう」と言う。

私は「まあ、でもたまには電車の旅も風情があって良いものでしたよ」と答えると、女将はテーブルの上の茶びつを開け、急須と湯呑みを取り出し、温かいお茶を入れ、どうぞと差し出し「取材の件は伺っております。明日の10時にこちらへ伺いますので、私でお役に立てれば何なりとお聞き下さい」と微笑んだ。

 その後、夕食に運ばれて来た数々の料理は美しく味も確かなものばかり。聞いてみれば板前が一人で料理をしているという。私は先ずその美しい料理を写真に収めると美味しい料理に舌鼓を打った。

 とっぷり日も暮れ、私は旅館や民宿の楽しみの一つである風呂へ入る事にした。

部屋に掛けられた手ぬぐいとカメラを手に持つと、暖かい暖色の照明が照らす廊下を真っ直ぐ歩き、突き当りにある露天風呂の入口の引き戸をスッと開け脱衣所に入った。先ず脱衣籠に手ぬぐいを置き、カメラを片手に露天風呂に繋がる引き戸を開けた。

 冷たい夜の空気が身を包む。

岩風呂から上がる真っ白い湯けむりの向こうに夜の海が一望出来た。

(素晴らしい景色だ)。

 私は岩風呂と向こうに広がる夜の海を、写真に収め、脱衣所に引き返すとカメラと浴衣を籠に入れ露天風呂へと戻った。

 夜の暗い海に漁火いさりびがちらちらと揺れている。(これは思った以上に良い宿だ。素晴らしい記事が書けるな)。そう確信して肩まで湯に浸かると、岩風呂に頭を預けて目をつぶった。

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