Karte.32 テロメア
【我生と茉莉】
マンションのエントランスから、茉莉が出てきて我生に軽くお辞儀をした。これは時間軸にして実花と零花が目撃した直後の話である。
「我生さん、お待ちしていました。さあ、中のほうへどうぞ」
「失礼します。今日は景くんは?」
「お友達と会うと言って、先程出ていきました」
「そうでしたか。心配はかけさせたくないので都合が良い」
首を動かさず目でマンションの外観を見渡しながら、我生は茉莉の後ろをついていく。
「あ、こちらです」
「二人で住むには少し大きめなマンションですね」
それもそのはず、そこまで高層マンションとまでは言わずとも、エントランスでルームキーを差し込まないと自動扉が開かないオートロック式のエレベーター付マンションだ。
「はい。彼が最後に残してくれたマンションなので」
「彼?」
「またあとで説明しますわ。さあ、上がってください」
「おじゃまします」
「どうぞ、こちらに座っていてください。コーヒーを用意しますので」
「お構いなく」
それから体感的にどれほどだろう、時間にして数分ほどの無言があったように感じた。
3LDKは二人で住むには少々広い間取りで、リビングもソファで腰掛けるタイプと椅子とテーブルのタイプがある。我生は案内された椅子とテーブルのほうに腰を掛けている。
「コーヒーは砂糖やミルクは?」
「無くて大丈夫です。茉莉さんお手洗いをお借りしても良いですか?」
「あ、どうぞ。玄関先の左手側の扉です」
「3分…ってところですかね。こちらを聴いてお待ち下さい」
そう言って我生はスマホを取り出し、『エリーゼのために』を流した。職業柄、手術をする際などに音楽を流すようなことはあるようだが、少し独特な待たせ方に茉莉はクスッと笑った。
――――――――――――
「お待たせしました」
「ふふっ、本当にピッタリでしたね」
「プロですから。ありがとうございました」
どうやら茉莉の緊張は解れたようで、自然と笑顔になり会話を切り出した。
「では、本題に入りましょうか」
「あれから少しメッセージでやりとりはしましたが、まだ核心に迫るようなことは聞けていませんからね」
我生と茉莉は連絡先を交換したあと、どうやらメッセージアプリなどを使って、何度かやり取りをしていたようだ。
「ええ。我生さんなら、わたくしの暗号に気が付いてくれると思っていました」
「精神科に訪ねて来られたとき、胸元を強調するように伸びをしたのは、服に書かれた文字を見せるためだったんですね。 【CODE=Cough】 咳払いの後の言葉を読み取れってことですね。直接伝えなかったのには理由があった」
精神科に訪れたとき、実花が気にしていた咳払いの仕草は、ストレスの反射ではなく暗号を伝えるための仕草だったということに、我生は気付いていたのだ。
「はい、それを今から話します。因みに、わたくしの残したメッセージは、どこまで読み取れましたか?」
我生は座り直す仕草をして、一度コーヒーをすすった。
「まず一度目の咳払いは、カフェの店名である【マスターマインド】……そう言って蓮の花のヘアピンに手を触れた。つまり黒幕の存在を知らせようとしていた」
「合ってます」
「二度目の咳払いは、【わたくしは利用されている】それは茉莉さんが黒幕に利用されているということですね。次の咳払いは【子供なんてきっと作る気無かった】景くんは恵まれた子では無い? ということ」
「はい」
「そして最後の咳払い【監視や盗聴をされている】はもしかして? と思って発言を控えましたが……」
「流石です。やはり彼女の指示通りに動いて正解でした」
「彼女?」
そこまでは読めていなかったようで、我生は首を傾ける。
「ルーシーちゃんです」
「あいつ……俺よりも先に気付いていたってことか。それに茉莉さんとも繋がっていたとは、一本取られたな」
「あの子、我生さんのことをすごく信頼していました。時が来たら我生に頼れと」
「まさかこっちが踊らされる側だったとは……経緯はまた聞くとして、今は手短に話しましょう」
ここで【茉莉が我生を訪ねてきたことでルーシーに動いてもらう】という構図が【ルーシーが我生を訪ねるように初めから茉莉に仕向けていた】という逆転の構図に変わることによって、ルーシーのほうが踊らされる側ではなく、踊らせる側だったということになる。
「まず黒幕の存在ですが、ヘアピン【蓮】と聞いて思い当たる人物がいるはずです。わたくしは彼に利用されているんです。景を虐待していたのもその彼で、実の父ではありません。景は恵まれて育つはずだった」
「なるほど。ある程度こちらも調べていて、黒幕に関してはまだ信じられない部分もありますが、実の父では無いというのは?」
茉莉の表情が一瞬にして悪天裏返すように色を失い、憂い帯びた悲痛な声に変わる。
「実の父は……八舞士郎こと藤藁夢介です」
「なんだって!? それは確かなんですか?」
「そうです! 黒幕の人物は妄想性障害で多重人格を患っていて、景の父親だと勝手に思い込んでいただけなんです! それで虐待を……」
「なんてことだ……ってことは八舞士郎にゴーストライターがいる話はご存知でしたか?」
ただただ驚きを隠せない我生に、茉莉はさらに重苦しい声で伝えようとする。
「ええ。いつか気付かれるとは思っていましたが早すぎましたね……誰がリークしたのか」
「まさかゴーストライターの正体もご存じなのでは?」
茉莉は黙ってコクリと頷いた。
「監視や盗聴は、わたくしに関わるありとあらゆる人物が狙われています! 我生さん貴方もです! ゴーストライターの正体……覚悟はいいですか?」
今度は我生が黙ってコクリと頷いた。
「ゴーストライターとして執筆していたのは、わたくしです。【YAMAISHIRO】は【OSHIYAMARI】のアナグラムです」
「本当だ。なぜ、そのようなことを?」
核心に迫ろうとしたとき、茉莉は左手の甲を押さえて息を詰まらせた。
「茉莉さん?」
「我生さん……テロメア……ってご存知ですか?」
「はい、命の時限装置とも呼ばれていて、細胞分裂を繰り返していくうちに、その分裂にはやがて限界が来る。染色体の末端の構造を指す言葉ですね。それが何か?」
「わたくしの監視システムは、それに
段々か細く、ゼェゼェと息も荒くなり震え上がる声に変わっていった。
「茉莉さん!? しっかりしてください!」
直ぐに救急車を呼ぼうとしてスマホを取り出すと同時に一本の電話が鳴った。
「……やあ、我生くん、余興は楽しんでくれているかね?」
「貴様が黒幕か!?」
いつになく声を張りあげて、我生は口調さえも荒くなる。
「真ジョーカーとでも名乗っておこうか。トランプでもジョーカーは二枚あるだろ? 糠喜びはいけないよ? 茉莉の体内に放出させたのは向精神薬の一種だが……早くしないと命に関わる……計画の邪魔をさせるわけにはいかないのでね!」
「ふざけるなっ! 絶対許さねぇぞ!」
我生は電話を即座に切り、救急車を呼んだ。
奇跡的にすぐに手配出来て、病院も我生のところへ救急外来として搬送された。
――――――――――――
急ぎ足で準備をするため、廊下を歩く我生に病院に居合わせた実花が駆け寄ってきて問い詰める。
「ねぇ! 救急外来で搬送された患者さんって茉莉さんでしょ!? なんなのよ! 何があったのよ!?」
「知らん! 細かい説明は後だ! 体内に埋め込まれていた装置が作動して、向精神薬が人体に回っている可能性がある!」
「何よそれ! どういうことよ!? 話が読めない! 助かるのよね!?」
「知らん! そんな経験も無ければ事例も無い!」
「じゃ、どうやって!?」
「知らん! どうするかとか関係ない!! 一秒でも速く! 一ミリでも可能性があるなら! やるしかねぇんだ……」
我生は実花を見ることもなく、歯を食いしばっているような力強い声でひたすら前に進んでいった。その迷わず判断する我生に実花はただ黙って信じるしかなかった。
「絶対、助けてよね、絶対に……」
去りゆく我生の背中を見て、か細い声でそう囁いた。
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