妻に逢いたい
佐々井 サイジ
妻に逢いたい
P氏は遺影に収まる妻をただ見ている。
いつも六時には起きて、朝ごはんや弁当の準備を妻と一緒にするのに、その日は一向に起きる様子がなかった。七時になり、P氏はベッドで寝ている妻の体を小さく揺するが反応はない。呼吸に合わせて身体が収縮することもない。胸に手を当てると鼓動が伝わらなかった。救急車を呼び、懸命に心肺蘇生の甲斐もむなしく、旅立ってしまった。昨日、四十歳の誕生日祝いをしたばかりだったのに。
遺影を眺めているうちに、出尽くしたはずの涙が溜まってきた。葬儀では参列者の前にもかかわらず妻の名前を呼び、棺に抱きついた。
「寂しかったら、俺らにいつでも頼ってくれ」
Pの友人たちは彼の肩や腕を掴んだ。P氏が妻の後追いをするのではないかとすら心配していた。しかしP氏は自殺を考えたものの、実行には移さなかった。自分が死ねば妻を思い出すことすらできなくなると気づいたからだった。
ある夜、P氏は夢に妻が出てきた。
「あの世で私と一緒になるには生きている間に十個、徳を積んで。早くあなたと一緒にいたい」
バネのように跳ね起きたP氏。その隣には妻がいない。それから一週間、同じ夢を見続けた。
「自分の寿命が尽きるのはまだ四十年以上先かもしれないから、その間に十個徳を積むことはできるかもしれない」
そう考えたP氏はこれからを徳を積む人生として捧げることに決めた。
とはいえ、何をすればよいのだろう、と考えながらコンビニのレジに並んでいると、レジ横に募金箱があった。募金は一年に一回するかしないか程度だが、妻に言われたことを思い出し、千円札を小さくたたんで投入した。レジの店員がわずかに目を見開いたような気がした。そのとき、悲しみの色が独占していた感情に一点だけ暖色が滴ったような心地だった。
「偽善かもしれないけど、人のためにたてるって気持ちがいいな」
それからP氏は日常的に募金をし始めた。それだけでなく、課長だった肩書を捨て、起業し、ホームレスや失業者を雇い入れ、親のいない子どもたちを自らの資産で支援した。そのうち、P氏は人徳のある社長だとしてマスコミからの取材も殺到した。
P氏が七十七歳になったとき、久しぶりに妻の夢を見た。
「もうあなたは十分すぎるほど徳を積んだよ。楽しみに待ってるね」
P氏が目を覚ますと、いつもの寝室ではなく、赤い顔に皺の彫られた怪異が彼の顔を覗き込んでいた。
「Pさん、俗世でのご活躍お疲れ様でございました。俗世では年齢の後半から数多の人間のために奉仕され、社会的にも一目置かれる存在となりました。よってあなたは天国に行くことがふさわしいでしょう」
怪異は閻魔だろうと推測した。見た目のわりには役所に勤める人のような固い口調だった。自分が亡くなったことを理解した。現世で関わった人々と別れる寂しさはなく、ただ妻に逢える喜びが身体中から滾り続けていた。長かった。しかしこれでようやく妻と一緒に過ごせるのだ。P氏は閻魔の腕が伸びる方向に進もうとした。
「あ、少しお待ちください」
閻魔が呼び止めた。
「あなたはずっと奥さんと一緒になりたいという思いで、生きてこられたことは知っております」
「その通りです」
「奥さんでしたら地獄におられます」
「は?」
P氏は閻魔の言うことがすぐに飲み込めなかった。しかし、見た目の怪異とは違い、誠実そうな言い方の閻魔に嘘をついている気配はない。
「あなたの奥さん、生前、不倫を繰り返していましてね。三度中絶もされています。この世界では身勝手な言動で中絶した場合、地獄行になりますから、奥さんは地獄にいらっしゃいます。もし一緒になりたければ地獄へ案内いたしますが、おすすめはいたしません。あなたは天国へ行くべき人物なのですから」
「妻が浮気……。中絶……」
閻魔は赤黒い手をP氏に差し出した。妻が知らない男と肩を寄せ合ってホテルに入っていく写真が握られている。子どもはあえてつくらなかった。二人の時間を大切にしたいと妻が言ったからだ。結婚して四十五年間、一度も変わらなかった妻への愛が瓦解していく。
「あなた!」
天国への道とは逆方向の分岐する奥から、叫び声が聞こえた。妻の声だった。
「私と一緒になりましょう!」
「ここ千年で地獄に行く人間が減少しておりましてね」閻魔は言った。「仏教が日本に輸入されてから極楽に行ける人が急増しました。地獄にいる牛頭や奪衣婆が、地獄行になった人たちに『暇だからお前の大事だったヤツ、地獄に来させろ』と唆すんです」
「でも妻は私を天国に行かせようと徳を積ませましたよね」
「
P氏は深く頷いた。
「私は天国に行ってもいいんですよね?」
「もちろん」
「妻には厳しい仕打ちをお願いします」
「千年単位で苦しむことになるでしょう」
P氏は口角が緩み、天国への道を進んだ。しばらく妻の叫び声が聞こえ続けたが、途中からその声は途切れた。
妻に逢いたい 佐々井 サイジ @sasaisaiji
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