3ー1 まさかと雨

 ヒビキと翔の買い物から、4日ほどのこと。


 この日は珍しく、翔と綾音の口論が繰り広げられることはなかった。


「……」


 朝も、授業の合間の休み時間も、昼休みの間も。ほぼ全ての時間、教室内にはただただ、静寂だけが走っていた。


 強いて言うのなら、雨粒が教室の窓を叩く音が少し気になる程度だろう。むしろ、今日はよく雨の音が聞こえてくる。


「いやぁ~、聞いたか翔? 今日は今年最大の大雨警報らしいぜぇ? ったく、こんな時くらい休校にしてくれりゃあいいのに、なぁ?」


「そうは言われても、先生たちの決めたことだから。それに、歌星くんの家すぐそこじゃん、仮に休校になったとしても歌星君の場合は自習で呼ばれるよ」


「うぐっ。けどよぉ、こんなに気圧も低くてジメジメしてたら、気分だってズーーンと落ち込んじまうじゃあねえか。オレちゃんだって、もう腹が減ってお腹と背中がくっついちまいそうだぜ……」


「それは低気圧と全く関係ないでしょ。お腹空いたならちゃんと食べなよ」


 拓眞の絡みに少々呆れ気味で返しつつ、翔はヒビキのアカウントに視線を落とす。


 その画面には、コスプレをしたヒビキの自撮り写真が多く掲載されている。


 多くは和風な世界観が舞台のソーシャルゲームのキャラクターや、女性向けゲームのイケメンな敵キャラなど。他にも様々なキャラクターに扮したヒビキの写真がずらりと並んでいた。


「あ、そうだ!」


 と、スマホの画面に気付いた拓眞は、ニヤリと笑みを浮かべながら、机の上に顎を載せる。


「ところでよぉ、その後どうなったのん? ヒビキさんとの関係性は。上手く行ったか?」


「えっ!? まあ、うん……。色々、想定外なことも、あった、けど」


「自信ねえなぁ……大丈夫、オレちゃんの恋愛攻略本だぜ?」


「どこの攻略本だよそれ? それに、その言い方じゃあ、全然信用ならないし、まずそんなネタは誰も知らないって」


「でも、少しは参考になった筈だぜ? 何せ、この〈恋愛の神〉直伝なんだからなァ!」


「まあ、参考には、なったけど」


 そう言いつつ、翔は四日前のことを思い出す。


 ヒビキにおんぶされ、その時に感じた心の安らぎ。初めて誰かとプリクラを撮った時、その時に感じた胸の高鳴り。


 そして、電車を待っている間の、切ない時間。


 17年生きてきて、初めて感じたその感覚。その正体が何だったのか、翔はこの四日の間考え続けていた。


 だが、翔の中にある辞書には、どのページにもそれを表す言葉は見つけられなかった。


 拓眞の言うとおり、確かに彼から伝授したものは役に立った。しかし、未だ翔の中には、モヤモヤとした気持ちだけが遺り続けていた。


 それはまるで、喉に留まってしまったカプセル錠剤のように。


 

 ***



 一方その頃、天道綾音もまた、雨模様の外を眺め、ため息を吐いていた。


 それはこの退屈な時間に対するため息でもあったが、同時に四日前の、あの胸焼けしてしまいそうなほどドキドキとした、推しとの買い物に対するため息でもあった。


(つばさちゃん……)


 心の中で呟きながら、右手に視線を落とす。


 その手には今も、電車が来るまでの間に感じていた彼女の――翔の温もりが残っている。


『このままでいたら、ダメ、ですか?』


 あの日、綾音は翔、もといつばさてゃとの距離が縮まったような気がした。


 腕を枕にするように顔を近付け、うっとりとした表情を向けていた翔の顔。


 その表情が、今も綾音の目に焼き付いて離れずにいた。


「ねえ、ねえってば。綾音~」


「わぁっ! なによひより、アンタいたの?」


「酷いなぁ。そりゃあ私は背低いけど、そんなに存在感薄くないじゃないの!」


 名前を呼ばれ、ふとスマホから目線を外すと、ひよりは頬をぷくっと膨らませながら綾音を睨んでいた。


 相変わらずのツインテールに結った髪に、地雷系メイクを施し、今日も自信満々に胸を張っている。


「それで、どうしたの綾音? 何か悩み事?」


「まあね、そんなところ」


「へぇ~、綾音が悩むなんて珍しい~。あ、だから最近天気が悪いのかも!?」


「なわけないでしょ。私だって、悩みの一つや二つあるに決まってるじゃないの。特に、ほら」


 綾音はそう言って、教室の片隅で拓眞と談笑をしている翔を見る。


 この四日間、これといった論争はしていないとはいえ、まだ翔と綾音のイタチごっこにも等しい校則に関する言い争いはまだ終戦していない。


 今も尚、彼との戦争は続いている。今はただの休戦、二人がまた論争を再開するのも、最早時間の問題だった。


「あーねぇ。生徒指導のワンちゃんか。最近大人しいよね~」


「全く、黙っていれば大人しくて可愛いものなんだけど……」


 どうせまた噛みついてくるわ。喉元まで来たその言葉を、綾音はそっと飲み込んだ。


 しかしそれが、全ての元凶になってしまったことを、綾音はまだ知らなかった。


「可愛いって、マジ?」


「えっ? アタシなんか言った?」


「今、如月のこと可愛いって」


「だってそうじゃない。いつもいつも校則について噛みついてきて、吠えてくるのはウザいけど、チビなのに見栄張ってるところとか。何かいじめたくならない?」


「ウソ、綾音そんな趣味あったの? や~ん、サディスト~」


「バカ言わないで。あくまでも例えよ、例え。なんですぐに噛みついてくるような番犬を愛でる必要があるって言うのよ」


 そう言いながら、綾音はペットボトルの紅茶を飲む。


 ひよりはそんな綾音のことを見つめながら、静かに、こっそりと訊いた。


「ところで綾音~、今って付き合ってる人とかいないの?」


 刹那、綾音は驚きむせてしまった。


 それが図星だったからだ。


「つつ、付き合ってるって!? どうしてそんないきなり!?」


「いやぁ~、綾音がそんなにため息吐くほど悩むことなんて珍しいから、もしかしたら彼氏とか彼女とかできたのかな~って。もしかして、彼女だったらこの私とか!?」


「ないわね」


 綾音はキッパリとひよりの思い上がった妄想を否定した。


「ひ、ひどいっ! 私は綾音のことこ~~~~~~んなに大大大好きなのに!?」


「そういう意味じゃなくて。そりゃあひよりは親友だと思ってるけど、そんな恋愛感情を抱くとかじゃないから。というか――アタシの恋愛感情は、もう死んでるもの」


「またまた~、そう悲しいことをおっしゃられる~」


「本当よ。私が誰かを性的に好きになることなんて、今後一生ないわね。でも、友達としてなら――」


 綾音は言いながら、つばさてゃのことを思い出す。そして改めて、彼への思いを確認する。


 彼だけが、綾音にとって唯一、異性で一緒にいて幸せになれる存在。しかし同時に、推し――神にも等しい、憧れの存在。


 つばさてゃへの愛が本物であることは、誰よりも綾音が一番自覚している。


 だが同時に、一人のファンである自分が抜け駆けでつばさてゃとこのまま関係を続けていいのか。自分はつばさてゃのことを幸せにすることができるのだろうか。


 そんな一抹の不安が、綾音の心を恋の感情で焦がしていた。


「まあ、心配はいらないわ。アタシの問題は、アタシの手で片を付けるから」


 そう言いながら、綾音はチラと翔の方を見た。


「そう。でもでも、本当に困ったらひよりにも頼ってよね?」


「その時はぜひそうさせて貰おうかしら」


 ひよりと言葉を交し、綾音は着替え袋を手に教室を後にした。


 次の時間は体育。この時だけは珍しく、綾音は誰よりも先に着替えに向かうのだ。


 ひよりは綾音を見送ると、彼女もチラ、と翔の方を見た。


 その時、ふと拓眞と目が合った。


「…………」


「それでよぉ、そん時に鬼木の奴がさぁ~――」


 拓眞は翔と世間話をしながら、ひよりに向かって二回、ウィンクをして合図を送った。


 ひよりも、拓眞に向け、無言でウィンクを二回、合図を送る。


(歌星から聞いた時は、“まさか”と思ったけど……)


(この感じ、二人は知らないだろうけど、オレちゃんだけは知っている……)


((如月翔と天道綾音は、付き合っているっ!!))

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