43話
奥深い世界を知ったあなたは屋敷への帰路に就く中、ふとした不安を抱いていた。
エルグランドでは女同士だろうが、男同士だろうが子供を作れる。
そして、作ろうと思わない限りは作らないことも出来る。
性交と子作りはエルグランドにおいては別の話なのだ。他大陸では違うが。
その感覚で昨晩も楽しんだわけだが、男と女では手順が違う可能性がある。
容赦なく全て注ぎ込んだが、もしかするとリンと子作りをしてしまったのかもしれない。
エルグランドならば双方の合意が必要だが、他大陸では違う。
もし、あなたが気付かないうちに子作りの手順を踏んでいたとすると……。
他大陸出身のリンは合意云々ではなく、肉体的な機能として子作りをする。
すると、もしかすると、昨晩の情交でリンが妊娠している可能性が……。
どうしたらいいのだろうか。もちろんあなたは責任は取る。
しかし、責任の取り方にも色々とあり、リンがどんな責任の取り方を望むのか。
いやいや、そもそも手順に失敗したと決まったわけではない。
今はまだ、まだ様子見でいいはずだ……たぶん……。
屋敷に戻ったあなたはフィリアを連れて、魔術師ギルドへと向かった。
「両替、済んでいるといいですね」
まったくである。両替の面倒さと言ったらない。
これがボルボレスアスの兌換紙幣だったらもっと面倒臭かったことだろう。
使う側としては便利だったが、得る方法は面倒だったものである。
ぼやきながらも魔術師ギルドを訪ねてみると、幸いなことに両替は完了していた。
他国から魔法で訪れる者もいるだろうから、そうした者のためにか両替商とのツテが多いのだろうか。
まぁ、国境の取り扱いがどうなっているのか、国家間の人の移動がどう考えられているのかが分からないので、推測以下の妄想でしかないが。
ともあれ、あなたは魔術師ギルドの魔法使いによる転移によって、港町はサーン・ランドへと転移した。
頬を撫ぜる潮風。爽やかな海の香り。浜辺から漂う甘い香り。
じわりと浮いてきた汗をハンカチで拭きつつ、あなたは海を前に首を傾げていた。
端的に言って、あなたは困惑していた。こんなの自分の知ってる海じゃないと。
あなたの知っている海はもっと黒く淀んでいて、なんとも言い難い独特の磯臭さを漂わせている。
魚の腐敗臭と、海辺の岩に生える苔から漂う香りが混然一体となって襲い掛かって来るのだ。
まぁ、海に慣れ親しんでいれば悪臭とも思わないのだが……。
間違ってもこんな透き通るように蒼い海なんかではない。
爽やかな香りもしないし、浜辺から甘い香りが立ち込めていたりもしない。
海がこんなに美しいなんて知らなかった。と言うか本当に海なのか?
もしかしたらすごくでかい湖を海だと思ってるのではないか?
アルトスレア大陸にあったチルドックの大水海は実際は湖であるし。
そう思って浜辺に降りて水を舐めてみたが、塩辛いので海ではあるらしい。
なぜこんなにも自分の知っている海と違うのだろうか?
エルグランドにおいて海とは脅威の象徴であり、忌むべき存在であり、また同時に征服するものなのだ。
暗く冷たい海からは侵略者がやってくる。エルグランド沿岸は水底より来たる脅威に晒された危険地帯なのだ。
そして同時に、溢れ返るほどの魚によって、エルグランドの民たちは古代からその腹を満たして来た。
侵略者が訪れる場所であり、そして、生きるために欠かせぬ糧を得るための場所。
海とは恐るべきもので、忌むべきものでありながらも、エルグランドの民は海から離れることができなかった。
その複雑な環境が、エルグランドの民に屈折した思いを海に抱かせたのだろう。
エルグランドの民に取り、海とは一言では言い表せない複雑な場所なのだ。
少なくとも、美しいと思うことはない。だって実際に見た目は緑と言うか茶色だったりしてなんか汚いし……。
まぁ、自然の厳しさへの憧憬から来る感嘆を美しいと表現することはあるかもしれないが……。
そこでふと、あなたはボルボレスアスを旅していた頃のことを思い出した。
ボルボレスアスの孤島群の海はボルボレスアスの宝石箱と呼ばれるほどに美しいと聞いていたが、実際に見たことはなかった。
あなたにとって海とは綺麗でも何でもない場所で、食料を得るためか、あるいは乗り越えて旅立つための場所でしかない。
そんなところが美しいわけがないと鼻で笑って、孤島群に近付くことすらなかった。
もしかすると、ボルボレスアスの孤島群の海はこんな感じだったのだろうか?
エルグランドの海となにが違うのだろうか? 調べてみたい。
あなたは好奇心に突き動かされそうになったが、その前にするべきことを思い出した。
あなたは町中から少し外れた場所でマーキングを施した後、一度屋敷へと戻った。
「あら、おかえり。遅かったわね」
転移が終わると同時、レインが声をかけてきた。
庭先にティーテーブルを出して、お茶をしていたようだ。
魔術師ギルドに置いてきたフィリアの姿もあることからすると、結構長居をしてしまったようだ。
「海があんまりにも綺麗で驚いた? ふぅん? そうなの?」
「んー……まぁ、以前に見たサーン・ランドの海は綺麗でしたけど。他所と比べて劇的に綺麗とか美しいってことはないと思いますけど」
そんな馬鹿な。あなたは驚愕した。
では、あの美しく透き通った海原も、さらさらと流れる砂も、あの爽やかな香りも、この大陸では普通だというのか。
その辺りを興奮気味に尋ねかけると、フィリアは戸惑いつつも頷いた。
「ええと、はい。私の知る限り海ってあんな感じかなと……むしろ、お姉様の知ってる海ってどんな感じなんですか?」
あなたの知っている海とは、緑と言うか茶色っぽい。
そして恐ろしく冷たく、海水浴なんかしたら楽勝で死ねる。
南部に行くと割と暖かい海になっているので落ちて即死とかはないが。
代わりに暖かい海だから水底の住人たちも多数居て、結局死ぬ。
水中で戦うのは難しいので、あなたも嬲り殺しにされたことがある。
今なら上空から海面を冷凍するか、沸騰させるかで対処可能だが。
「ええ……怖……なんですかそれ……」
「緑とか茶色っぽい海……?」
冬季になるとエルグランド北部の海は大量の氷が流れ着く。
元よりエルグランド北部は常冬の大地だというのに、余計に寒くなるのだから溜まったものではない。
住人たちは慣れているのか知らないが、わざわざクソ寒い冬に癒しの女神ジュステアトの感謝祭をするのだから正気の沙汰ではない。
「海から、氷が、流れ着く……?」
「そんなことあるんですか?」
理解不能と言った顔をされてしまったが、エルグランドでは普通のことである。
ちなみにその時期に海に落ちるとほぼ即死だ。大体死ぬ。
あまりにも冷たい海に突然落ちると心臓が止まってしまうのだ。
あなたも何回か落ちて即死したことがあるので間違いない。
「氷が浮いてて、でも、溶けないってことは、恐ろしく冷たいってことよね」
「少しずつ溶けてはいるんでしょうけど、でもほとんど溶けないと言うことは……」
「それこそ、水温が1度とか2度くらいしかないってことよね……」
「まぁ、そうなりますね……たしかに落ちたら死にますね、それは」
「確かにそんな海で泳ぐのは自殺行為ね……」
夏なら泳げないことはない。いちおう、エルグランドにも海水浴の文化は存在する。
まぁ、元々は塩水浴と言って、遊びではなくて治療行為だったのだが……。
真夏の2週間くらいの間が海水浴シーズンだ。
浜辺で盛大に焚火をして料理なんかしながら泳ぐのだ。
「一応夏なら泳げるのね。エルグランドでも夕暮れ時まで遊び続ける子供とかいるんでしょうね」
あなたは苦笑して否定した。そんなことをしたら死ぬ。泳いでいいのは真昼だけだ。
真昼であっても泳げば寒い。だから焚火をするのだ。焚火で体を温めてやらないと泳げない。
「ええ……」
「真夏なのに、焚火が必要な寒さ……」
気温的にはそれなりにあるが、水が冷たいのだ。
エルグランド北部の海は、更なる北方からの潮流が流れ着く。
寒冷な地域から流れ着く水だから、基本的に恐ろしく冷たいのである。
真夏なら水温は20度を上回るので楽しく泳げるわけだ。
「えーとね、この辺りの海はかなり暖かいから……真冬でもそれくらいはあると思うわよ」
なんと言うことだ。この大陸は年中海水浴が楽しめるらしい。
たしかに考えてみると、サーン・ランドは春先とは思えないほど暑かった。
この大陸の気候そのものがエルグランドよりも穏やかなわけだ。
この大陸で活動し始めて日が浅いので、気温の変化にはまだ気付いていなかった。
「……夏になったら海に遊びに行きましょうか」
「そうですね……お姉様、夏には海に遊びに行かなければ損ですよ」
考えてみればサシャは湖で遊んでいたと聞いた。
単に湖岸で遊んでいたということだと思っていたのだが。
気候がそこまで穏やかならば、もしかしてほとんど年中泳げたのだろうか?
「さすがに冬は泳ぎませんけど……そうですね……5月から10月くらいまではみんな泳いでましたよ。人によっては4月から11月くらいまでは泳いでたかな……」
半年以上も水泳シーズンがあるとは信じ難い話である。エルグランドには2週間しかないのに。と言うか11月は冬では?
ボルボレスアスも割と温暖な気候だったが、この大陸はそれを上回っているだろう。
アルトスレア南部くらいの気候なのかもしれない。夏場はかなり暑いことを覚悟した方がよさそうだ。
逆に冬はとても過ごしやすいだろう。まぁ、この辺りの冬の気温がどれくらいかは知らないが。
「真冬ならちゃんと寒いわよ。気温10度を下回ることもあるんだから」
逆に言うと10度を下回る程度でしかないようだ。
やはりこの大陸の冬は相当過ごしやすいようである。
今から冬が楽しみだ。きっと冬でもワンピースで過ごせるくらい暖かいのだろう。
……そこであなたはふと気づいた。あなたはこの地の暦を把握していない。
特段気にしてもいなかった。べつに日付なんか知らなくても生きていけるし、備忘録にはエルグランドの暦で日付を記入している。
気候的に、今が春だろうと思っていたのだが。もしかすると、今は冬……?
「……なんて?」
レインに聞き返されてしまったので、あなたはもう1度尋ねた。
もしや今は冬なのかと。
「いまは、3月だけど……」
冬だった。あなたはてっきり今が春だとばかり思いこんでいた。2か月ほど感覚がズレていた。
と言うか、3月。3月なのにこんなに暖かいのか。3月なのに雪がない。よっぽど温暖な証だ。
と言うことは、冒険者学園の入学シーズンはもう少し先と言うことになる。
「ええ……だから急いで準備をしてるんだと思ってたんだけど」
あなたは5月くらいだと思っていたのだ。と言うかもう6月かな、くらいの感覚でもあった。
すると、入学はまさに今これからと言う時期である。むしろ余裕がある。
学園は寮生活だというから物件を探す必要はないだろうが、新生活のための準備が色々とできるだろう。
と言うか、1~2か月もあるのだから、しばらく王都で遊んでいてもいい。
メアリをたくさん可愛がってあげなくてはいけないし、ソーラスでカイラとも遊びたい。
特に、カイラとは一晩の逢瀬ばかりだったので、1日中いっしょに過ごす日も欲しいところだ。
それ以外にもたくさん可愛い女の子がいるのだ。積極的にナンパしていかなくてはいけない。
それに娼館だって楽しめていない。まずは王都の娼館をはしごしなくてはならないだろう。
あなたは降ってわいたように感じる余暇に胸を躍らせていた。
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