15話

 宿へと戻り、着替え類を用意した後、レインは宿の女将に公衆浴場の場所を訪ねていた。

 驚いたことに、レインは公衆浴場の場所を知らなかった。そも、存在しているかも知らなかった。

 だが、あるものとして話していた。つまり、どの町にも公衆浴場があると言う前提がある。


 町があれば、そこには当然公衆浴場がある。それが当然と思える大陸。

 やっぱりこの大陸こそが神に祝福された大地ではないのか? あなたは真剣にそう思った。

 どうしてエルグランドには水の神が居ないのだろうか? 一応いると言えばいるのだが……。

 豊かな水の恵みを齎す神ではなく、暗い深海の恐怖を匂わせる類の神なので、違うのだ。


 さておき、レインの問いに女将は当然のように答えた。

 つまり、公衆浴場がどこそこにあり、どういう浴場なのかと言う答えを。

 浴場が当然ある上に、複数存在するらしい。あなたはくらくらしてきた。


「行きましょ。料金がちょっと高くてもいいわよね?」


 あなたは頷いた。べつに高くても、庶民向けの範疇ならなんら問題ないだろう。

 サシャとフィリアの分はもちろんあなたが出すので、あなたが頷けばそれでよい。


「水晶の輝きって言う浴場がいいらしいわ。食事処まであるらしいわよ」


 風呂で……食事……? 意味が分からない。あなたは首を傾げた。

 入浴中に食べるのだろうか? それとも、浴場に食事処が併設なのだろうか?

 浴場にわざわざ食事処を設ける必要性とは? なんのために?


 あなたは首を傾げながらもレインの先導で公衆浴場へと向かった。

 そして、辿り着いた先には、実に立派な建物があった。

 大きい。あなたが想像していた数倍は大きい。めっちゃでかい。


 建物の中に入ると、実に立派なカウンターで店員が待ち構えていた。

 そこで料金を支払う。銀貨3枚。高いのだろうか?


「まぁ、高いと言えば高いわよ」


「相場よりはちょっと高い……くらいですかね? 地域によってはもっと高いこともありますし、普通かと」


 そう言うものかとあなたは頷いた。

 そして、奥へと進むと、まず出迎えたのは食堂エリア。

 さすがに入浴中に食べるわけではないらしい。


 大入り満員というほどではないが、人で賑わっている。

 供されている食事類は中々に立派なものである。

 酒類を嗜んでいる者もいるようだ。


「へぇ、なかなか悪くなさそうね」


「すごいですね……こういう公衆浴場って始めて来ました……」


 サシャは気後れしているようだ。あなたは思わずサシャの手を握った。

 あなたもはじめての場所で不安だったのである。

 サシャもそれに気づいたのか、ぎゅっと手を握り返してくれた。


「まずはお風呂ね。さ、行きましょ」


 そう言ってレインが向かった先は、赤い旗が立っている方の通路である。

 上に文字が書かれており、それを何気なく見やったあなたは驚愕した。


 女性用、と書かれていたのだ。


 性別で風呂を分けているのだ! わざわざ!

 男女の別なく浴場を使わせれば使う水の量も燃料も少なくて済むのに!


 いやいや、男女に分けるから、浴場の大きさも随分ケチっているに違いない。

 沸かすための燃料だって相当ケチって、ぬるいお湯なのかもしれない。

 なに、野外で水浴びをするのに比べれば天国のようなものだ。あなたは大きく期待をしないようにした。


 通路を通って行くと、脱衣場へと辿り着く。

 こうした部分は宿などでも見ていたので分かる。

 手早く服を脱ぎ、脱いだ服は『ポケット』に放り込む。

 あなたはドキドキと心臓を震わせながら、浴場へ繋がるドアを開いた。


 むわりと湯気があなたを襲った。

 暖かな熱気が裸身のあなたを撫ぜる。

 落ち着け、落ち着け……そのように自分に言い聞かせつつ、あなたは浴場へと足を踏み入れる。


 そこには泳げそうなくらいに広い浴槽があった。

 つるつるとしたタイル張りの床面が、いやにふわふわとしているような気がした。

 浴槽の中では、数人の歳も様々な女性たちが思い思いに入浴を楽しんでいる。


「どうしたの? ほら、体を流さないと」


 レインに促され、あなたはふらふらしながら壁に取り付けられているシャワーを浴びる。

 熱い。ちょっと驚くくらいに熱い湯が噴き出している。それを浴びると、土埃や汗が洗い流されていく。


「ご主人様、どうぞ」


 サシャに渡されたのはソープだ。体を洗うための薬液である。

 石鹸とはなんか違うらしいが、何がどう違うのかは知らない。

 とろりとした液体を泡立てて、肌を軽く洗い流す。いい香りがする。

 そうした後、浴槽へと浸かると、肌に噛みついてくるかのような錯覚を覚えるほどに熱い湯があなたを包んだ。


 嘘だろう、現実にこんな施設が存在するなんて。


 あなたはかつて宿で使ったシャワーに心底しびれさせられたが、そんなものは序の口だったのだ。

 こんなに大量の水を、熱いくらいにまで沸かす。水も燃料も大量に消費する贅沢だ。

 これが庶民向けの公衆浴場? 信じられない。これではエルグランドの貴族は庶民向け以下の浴場で喜んでいたことになる。


 しかもここは女専用の浴場なのだ。男専用の浴場も同等の規模のはずだ。

 つまり、眼に見える範囲の倍の水と燃料が費やされているのである。

 5人も入れば精一杯のような大きさの浴槽に体温と同じ程度の暖かさの湯が満たされているのがエルグランドの公衆浴場だ。

 それですらも目も眩むような贅沢だというのに、ここではそれより広く、熱い湯が満たされている。


 貴族にだけ許された贅沢が、この大陸では庶民が楽しめる娯楽よりも下でしかない。

 やはり、この大陸こそが神に祝福されている。間違いない。あなたは確信した。

 ならば、この大陸にウカノ様の信仰を広めるのだ。水が豊かならば、作物も豊かに実るはずだ。

 五穀の豊穣を司るウカノ様も喜んでくれるはずである。あなたは頷いた。


「どうしたのよ、嫌に静かね……こっちを見もしないし……」


「お姉様、具合でも悪いんですか?」


「あ、ご主人様、もしかしてお腹が空いてるとか?」


 なにやら体調を心配されてしまった。あなたはぎこちなく笑って、なんでもないと答えた。

 ただちょっと、あまりの豊かさに圧倒されただけだ。




 エルグランドでは到底味わえない贅沢を存分に堪能した後、あなたたちは湯から上がった。

 たっぷりのお湯に浸かるという贅沢に惑わされたせいで、周囲の女性たちを目に焼き付け損ねたことは少々惜しかったろうか?

 さておいて、あなたたちは湯上がりの肌に綺麗な衣服を纏い、併設の売店なるものに足を運んでいた。


 ちょっとしたお菓子や、冷たい飲み物が売っているようだ。

 ガラスのケースに陳列されているのは、牛乳のようだ。

 色合いが異なる牛乳があるのは味が違うのだろうか?

 さすがに古くなっているわけではないと思いたいところだ。


「へぇ。カイル氏考案の味付き牛乳。キンキンに冷えてるらしいわよ」


 しかし1本で銀貨1枚はぼったくりではなかろうか。

 まぁ、嗜好品と言うことを考えたらそんなものかもしれないが。


 あなたは試しに微かに桃色をしている牛乳を購入してみた。

 サシャは黒っぽいやつ。フィリアは普通の牛乳。レインはサシャと同じもの。


 紙を押し固めて作った蓋を、棒の先端に針のついた道具で開封する。

 きゅっぽん、と小気味いい音を立てて蓋が外れ、あなたは牛乳の香りを嗅いでみる。

 特に悪くなっているという雰囲気はない。微かに果実の匂いがするような……?


 意を決して牛乳を口に運ぶと、まろやかな乳の風味に混じって果実の甘味が蕩けた。

 桃だろうか? とろりとした甘味が実に美味だ。あなたはついゴクゴクと飲んでしまう。

 そしてもう1本購入した。フルーツ牛乳と銘打たれているが、具体的に何が入っているのだろうか?


「このコーヒー牛乳っていうやつも美味しいわよ」


 あなたはフルーツ牛乳を味わって飲み干した後、コーヒー牛乳なるものも購入した。


「そんなに飲んだらお腹壊すわよ」


 この程度で腹を壊すほどやわではない。

 あなたは笑いながらコーヒー牛乳の蓋を開けて、じっくりと味わった。


 不思議な味わいだ。これはどうも、シチュードティーに似ている。

 おそらく牛乳でなにかを煮出して作っているものなのだろう。

 香り高いが苦味を持つ液体。牛乳がその苦味を中和してくれている。

 そして、そこに砂糖をどっぷりとブチ込んでいるのだろう。お菓子のように甘い。


 なかなかおもしろい味わいだ。ひとつ言えることは、おいしいと言うこと。

 カイル氏なる人物は何度か名を聞いたが、食品関連での印象が強い。

 よっぽどの美食家だったのだろうか?


「おいしいですけど、ご主人様の出してくれる牛乳の方がおいしいですね」


 あなたの自慢のペットから得たミルクの方がサシャの好みには合うらしい。

 たしかに、こちらの牛乳の方が幾分さっぱりしている。濃厚なものを好むならあちらの方が合うだろう。

 濃厚で病みつきになってしまいそうな味わいだから、気持ちはよく分かる。


 しかし、風呂上がりによく冷えた牛乳。

 この不思議なほどのうまさはなんなのか。

 湯で火照った体に冷たい飲み物が利くのは分かる。

 しかし、冷たい水では味わえない幸福感がある。


 風呂と牛乳。この組み合わせを考案したであろうカイル氏は、たしかな見識を持った美食家なのだろう。


「その、カイル氏考案の料理もあるらしいわよ」


 コックが女性なら食べるのだが、どうだろうか。

 あなたは考えつつも、食堂の方へと向かうのだった。




 食堂では、いくつもの調理場が壁際に並んでいる。

 屋台のような形式で営業をしているらしい。

 そこに向かって金を払い、料理を得る。固定店舗でこそあれ、まんま屋台だ。


「宿屋の奥さん方が副業でやってるみたいですね」


 確かにそんな感じの顔ぶれである。恰幅のよい肝っ玉お母さんと言った感じの人が多い。


「適当に好きなものを買って食べましょうか。こういうのも楽しいわよね」


 賛成である。

 あなたたちは思い思いに店をめぐることにした。


 サシャとフィリアも、あなたが与えたお小遣いを片手に買い食いを楽しむだろう。

 あなたも同様に、面白そうなもの、美味しそうなものを物色する。

 眼についたものをあれやこれやと購入し、思うさま楽しむ。


 なるほど、風呂場に食事処と言うのが分からなかったが、これは楽しい。

 風呂場と考えるのがいけなかったのだ。ここは風呂もある遊興施設なのだろう。

 なんだったらもうここに泊まりたいまである。さすがに宿はないようだが。


「日と時間によっては、なにか出し物もしてるみたいね。演奏とか歌劇とかをやるらしいわよ」


 それはもはや貴族の遊びではなかろうか?


「かもしれないわね。こういうところを総合アミューズメント施設って言うらしいわよ。そこに書いてあったわ」


 レインの指差す方を見やると、なにやら石碑が壁に埋め込まれている。

 どれどれと読んでみると、この施設はカイル氏が考案し、設立した施設なのだとか。

 風呂を中心に、食事と娯楽を提供し、ちょっとしたスポーツなんかもできる。


 スポーツで汗を掻いたら風呂で汗を流し、腹が空いたら食事を摂り。

 ここで1日楽しんでしまえるような場所を作りたかったらしい。

 美食家と言うよりは、単純に道楽者なのかもしれない。

 それでいて冒険者としても優秀だったというのだから、会ってみたかったものだ。


「チャタラができる遊戯室もあるらしいわよ。あなた強いらしいじゃない。あとでやりましょうよ」


 あなたはレインの誘いにもちろんと頷いた。


 チャタラとはこの大陸特有のボードゲームだ。

 6種類の駒を、8×8マスの盤上で交互に動かして、王をとったら勝ち。

 1対1のものと、4人対戦形式があり、4人対戦ではサイコロも使う。また4人対戦の場合は駒は5種類。

 チェスに似ているが、違うところもあるボードゲームである。


 ダンジョンに挑んだ後の骨休めにここを使うのもよさそうだ。

 風呂も食事も娯楽もある。惜しむらくは娼婦がいないことだろうか。

 さすがにサシャやフィリアと致すのもまずいだろう。あなたにだってそのくらいの判断力はある。


 そこらへんは不満だが、まぁ、ここで思う存分遊んだ後、宿でやればいいだけの話。

 あるいは娼館に繰り出してもいい。ここは健全に遊ぶ場所だと考えればいいだけのことだ。

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