2話

 巨大な熊の胴体に、ナイフが捻じ込まれる。

 ぐりぐりと力尽くで毛皮が切り開かれ、その下の腹膜までも切り裂くと、濃厚な血臭と内臓臭が立ち込めた。


「うっ!」


「うぶっ」


 ナイフを差し込んでいたサシャが顔を背け、覗き込んでいたレインが口元を抑える。

 サシャは涙目になりつつも堪え、レインは堪え切れずに、乙女的な尊厳を地面へと放出した。

 あなたとフィリアには、乙女の尊厳を削る事態を見て見ぬふりをする情けがあった。


 解体の時に初心者が吐くのは定番のあるあるネタだった。

 獣は季節や食性、また年齢や性別によってだいぶ臭いに差がある。


 しかし、見た限りこの熊はオス。時期は暖かさからして春先。年齢は不明だが、若いということはなさそうだ。

 臭い条件がたっぷりと積み重なっている上、血抜きなんてものはしていない。

 食べるために解体しているわけではないのだから、血抜きなんて面倒臭いことはしていられない。

 冒険者として価値ある素材を採集する際の解体は、どうしても臭いものなのだ。


「はい、口をすすいで、落ち着いてくださいねー」


「げほっ、おえ……う、うぅ……」


 フィリアがレインに水で口をすすがせる。吐いた後に口を水で洗うのは大事だ。

 吐くと胃液が出るのは当たり前であるが、これが口に残るとよろしくない。

 歯が悪くなるのだ。歯が悪くなると、力を振り絞れなくなってしまう。健康な歯は健康な肉体を作るのである。


 一方のサシャは吐かずに頑張っているが、涙目である。

 まぁ、涙目でがんばれるだけえらい。あとでたくさん褒めてあげなくてはいけないだろう。


「うぅぅ、ご主人様ぁ、い、いったいどこを回収すればいいんですかぁ?」


 とりあえずは価値があるらしい、肝臓と胆嚢である。

 胆嚢は解毒薬としての需要があり、肝臓には滋養強壮薬としての需要があるとのこと。

 珍味として手、脳味噌、睾丸などにも価値があるらしいが、それはとりあえずいいだろう。


 周囲を警戒しながらも解体しろ、と言う指示に対し、サシャは可能な限り頑張っている。

 肋骨を叩き割り、内臓を引きずり出して、あなたが指示した部位を切り取っていく。


「う、うぇぇ……血でべたべた……」


 あなたは以前にレインから習った水を出す魔法でサシャの手を洗い流してやった。

 割と燃費が悪い。これはたぶんあなたの使い方が間違っているのだろうが……特段気にするほどの消費でもなかった。


 必要部位を採取された熊は悲惨な状態だ。内臓を引きずり出されて殺されたのかと錯覚するような有様である。

 このまま放置すると他の獣を引き寄せてしまうので、可能ならば処分してやるべきだろう。

 とは言え埋めるのも面倒なので、あなたは魔法で死体を焼き払った。

 エルグランド特有の威力に全振りした魔法により、熊の死体は瞬く間に焼失した。


「うっ」


 肉の焼け焦げる臭いと、毛皮の燃える臭い、そして血が沸騰し蒸発する臭い。

 これ、もしやまずいのでは? と、あなたはやってから思い至った。


 サシャの顔色がサーッと悪くなった。そして蹲り……サシャはよくがんばった。

 吐き気に耐えてよく頑張った、感動した。だが、最後の最後で台無しだった。


「う、うえっ、ご、ごめんなさ……ごめんなさい……」


 謝る必要はない。だれだって最初はこんなものである。

 あなただって初めて臓物がばら撒かれた場面に居合わせた時には吐いた。

 エルグランドの民は凄惨な死体には慣れっこだが、やはりはじめての時は吐いたり動揺したりするのだ。


「ご主人様も……」


 誰だって初めから強かったり、上手いわけではないのだ。

 サシャはこれからなのだから、焦ったり謝ったりする必要はない。


「はい……」


 サシャの頭を撫でて慰める一方、同様に青い顔をしているレインには、もっと頑張れ、と適正な評価を下した。


「ええ……さすがに、自分でも情けないって分かってるわよ……」


 年下の子ががんばって解体してる中、自分1人だけ真っ先に脱落して、どんな気持ち? ねぇ、どんな気持ち?

 あなたは容赦なくレインを煽った。基本あなたは女に甘いが、それはそれとして情けないところを詰る容赦のなさもあった。


「わ、わかってるわよ……次は、私が解体して見せるわ」


 期待しているとあなたは頷いた。何事も挑戦しなければ上達しない。

 あなただって無数の挑戦の末に今がある。挑む者にこそ幸があるのだ。


「それにしても、凄い火力ね……一瞬であんなに大きな死体を焼き払うなんて……」


 魔法使いのレインとしてはそちらの方に注目が行くらしい。

 殺傷力に全振りしたエルグランドの魔法ならばこれくらいは容易いことだ。


「……獣を解体する魔法とかない?」


 エルグランドの魔法にそんなものがあると思ったら大間違いである。

 あるとしたら、この近辺の魔法だろう。むしろレインは心当たりがないのだろうか?


「うーん……ドルイドの魔法にだったら、そう言うのもある、かも? どうかしらね……いえ、変成系の術にそれらしいものが……生物素材はいけるかしら……」


 ブツブツとレインがなにかの考察を始めた。後で教えてもらおうとあなたは頷いた。


「お姉様、処理は終わりました。どうします?」


 サシャが引っこ抜いた内臓を処理していたフィリアがそう声をかけて来た。

 サシャとレインが吐いてしまったので、休んでから帰ろうと提案した。


「まだいけるわよ」


「わ、私もまだがんばれます」


 だめである。吐くと、精神的にも肉体的にも大きく消耗する。

 そうしたコンディションの悪い状態で戦うのは極めて危険だ。

 避けられない状況でそうなることもあるが、この状況はそうではない。

 帰ろう、帰ればまた来られる。あなたはそのようにレインとサシャを諭した。


「……分かったわ」


「うぅ……次こそ、次こそは……」


 納得してもらえたようだ。

 あなたはとりあえず、『四次元ポケット』から各種の食材を取り出した。

 パン、ミルク、チーズ、たっぷりのお砂糖と、あなた特製のブイヨン。


 『四次元ポケット』ならば、液体も零すことなく運べる。

 そのため、極めて贅沢なスープストックのブイヨンを野外で利用することも可能だった。


 あなたはミルクを鍋に注ぐと火を起こした。その火でミルクを温める。

 沸騰する前に砂糖をたっぷり、パンを刻んで放り込み、チーズもたっぷり放る。

 さらにブイヨンで味を調え、遠火で3分ほど煮込んで優しい味わいのパン粥が完成する。

 吐いた後の胃にも優しいパン粥で栄養補給をしてから帰ろうというわけだ。


「あ、おいしい……すごく沁みる……」


「ただのパン粥じゃない……すごくおいしい……!」


 レインとサシャはしみじみと喜びながら食べている。

 フィリアはブイヨンの価値を知っていたらしく、こわごわと食べていた。

 味の方には満足してもらえたようなのでよしとする。


「あ、あの、ご主人様。その、おかわり……いいですか?」


 サシャがおずおずと申し出て来たので、あなたは残っていたパン粥を全部注いだ。

 たくさん食べて大きくなりなさいと言うと、サシャは嬉しそうに耳を震わせてパクパク食べた。

 わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい。あとできればエッチな子に育って欲しい。やはりこう、胸は大きい方が揉み心地が……。


「お姉様のご飯、本当においしいですよね。料理店もやっていけそうです」


「客をえり好みするだろうから向いてないわよ」


 レインの端的な評価にあなたは笑った。まさにその通りである。

 男を追い出すとかはしないが、女性だけを優遇したメニューやらサービスをすることは間違いないだろう。

 まぁ、そうしたところで店を十分に繁盛させる自信はあるのだが。


 さておき、そうしてお腹を満たしたところで小休止は終わりだ。

 これからは町に戻るべく、復路を行くことになる。

 家に帰るまでが冒険である。帰りつけないものは冒険者ではない。


「そうね、無事に帰ってこそ評価がされるというものね。油断せずに帰りましょう」


「がんばります!」


 意気込むサシャの頭を撫で、あんまり気負うと疲れるのでほどほどにと諭した。


「あ、はい。えへへ……」


 照れ臭そうに頭を掻くサシャは身悶えするほどかわいい。

 あなたはより一層サシャの頭を撫でて可愛がった。ふにふにした耳が気持ちいい。


「ふぁ……ご主人様に撫でられるの、気持ちいいです……」


 だるんだるんに甘えた声でサシャが呟く。実に心臓に悪い声だ。

 ああもう可愛いなぁ! とあなたはサシャの頭を撫でくり回す。


 しばらくいちゃついた後、あなたたちは町へと戻るべく歩き出した。

 行きはよくても帰りが怖い。道が分かっているという安心感が油断を呼ぶ。

 行きと帰りでは疲労度が違う。疲れ切った状態で、価値の低い安心感を抱くのは危険なのだ。


 だからこそ、まだいける、と言う予測は、既に危険なのだ。

 まだいけると言うことは、不調はあるけど進むことは可能である、と言うことだ。

 帰りのことを勘定に入れてその発言が出来る者は少ない。


 常に万全でいられるほど簡単な話ではないが、不調を感じたらそれを重要視する。

 何事も命あっての物種である。ただ無謀に突き進むだけでは三流である。


 そう思いながら歩いていると、くい、と服の裾を引かれた。

 位置的にフィリアがやったことだろうと見当をつけ、あなたはフィリアへと目線をやる。


 するとフィリアが目線で巨大な木への注意を促して来た。

 あなたは意識してその巨木の周辺を索敵した。

 するとなるほど、前方の木陰になにかが隠れている。


 ここはひとつ、咄嗟の時の対応でも見ようかなとあなたは考えた。

 そのため、フィリアには頷いて見せた後、サシャとレインの方へと視線をやった。

 その動きだけで理解したのか、フィリアは微かに頷いて見せた。


 そして、樹木の横を通り過ぎようとした時、その影から飛び出して来たのは熊だった。

 先ほどの個体よりもさらに大きい個体だった。

 その熊が一直線に狙ったのはサシャだった。


 それを認識した時、サシャが咄嗟に取った行動はあなたをして満点を与えられるものだった。

 つまり、あなたが先ほど貸し与えた石を投擲すると同時の抜剣。

 石ころが直撃した熊だが、微塵も堪えた様子はなく、サシャへと向かっていく。


 サシャが駆け出し、熊の振るう腕を回避するように地面に転げつつ、熊の膝に当たる部分へと剣を叩き込んだ。

 ほう、とあなたは感心した。以前にサシャに教えた、集団戦における戦法のひとつだったからだ。

 転がりながら相手の脚を斬りつけ、転がった隙はそのまま転がって逃げるか、あるいは仲間にカバーしてもらう。


 つまり、これはサシャからの指示でもあるわけだ。自分の後隙をカバーしろという。

 あなたはサシャが随分と戦士としてこなれたものだと笑うと、サシャの指示通りカバーに入った。

 つまり、あなたも抜剣すると熊へと立ち向かい、その腕を叩き切ったのである。


「熊!?」


 背後からボウガンのボルトが飛んで来る。それは狙い過たずに熊の体へと命中する。

 ボウガンは重いので咄嗟に狙うのは難しいのだが、フィリアは随分とボウガンの扱いに慣れているらしい。


「『熱線』!」


 レインが放った魔法が熊へと直撃。一瞬にして熊が火に包まれるが、すぐに火は消える。

 魔法による火には、可燃物の要素がない。火を支える要素がまったくと言っていいほどにないわけだ。

 対象を炎上させることができればそれが可燃物となるが、水気を多量に含んだ生物はなかなか燃えにくい。

 加えて、魔法による火であるから、魔法への耐性、また生物の持つ内在魔力でかき消されてしまうのだ。

 対象が燃えやすいか、あるいはその生命の火を掻き消せるほどの威力がなければ燃え続けはしないのである。


 あなたはなるほどとうなずく。なかなかに悪くない連携ではないだろうか?

 サシャの咄嗟の対応は満点。レインの対応はまぁ、満点はやれないが十分な点数はやれるだろう。

 熊!? とか驚いていないで、さっさと『魔法の矢』あたりで応戦していたら満点なのだが。


 さておき、熊は腕を切り落としたあなたを最大の難敵と見たのか、あなたへと注視する。

 地面を転げて離脱していたサシャは熊の斜め後方に位置している。

 さて、サシャはどう動いてくれるのか、楽しみである。


 立ち上がって体勢を整えたサシャが熊へと襲い掛かる。

 手にした剣を大上段に構え、狙うは肩。頭を狙っても効果が薄いと考えているのだろう。

 実際のところ、いまのサシャの腕力ならば頭を叩き割って一撃で仕留められるのだが……。


 まぁ、頭骨と言うのは剣筋を正しく立てなければ、叩き割れる威力があっても逸れてしまうことがある。

 肩口を狙って斬り付ける、というのは確実な選択肢と言えるだろう。


 サシャの剣が熊の肩口へと斬り込み、胸元まで一挙に切り下げる。致命傷である。

 だが、まだ死んでいない。野生の獣の生存本能はすさまじい。生きている限りは危険だ。

 サシャはそれを十分に承知している。胸元まで食い込んだ剣が抜けないと見るや、即座に手放して離脱した。


 悪くないとあなたは頷くと、サシャが斬り付けていた脚を反対側から切り込んで足を切り落とした。

 しばらく待てば死ぬだろう。あなたは同様に距離を取り、地面に転げて悶える熊を油断なく警戒した。


「あぅぅ、私の剣がぁ……」


 サシャが悲し気にそんなことを言う。サシャの剣は熊の体の下敷きになっている。

 この大陸に来た当初、山賊から命ごと奪った代物なので価値はほぼゼロなのだが。

 初めて手にした剣、という意味で言えば、思い入れ深いものかもしれない。


 粗悪品なので、下敷きにされた衝撃で折れているかもしれない。

 ちゃんとした高品質の剣ならば、あの程度の荷重を受けても曲がったりはしない。

 正確に言うと、曲がるが、ちゃんと戻る。剣と言うのは曲がるのが普通なのだ。


 あなたはサシャを慰めるように、もっといい剣を用意してあげると伝えた。

 そろそろ粗悪品の剣は卒業して、ちゃんとした高品質の剣を与えるつもりだったのだ。


「新しい剣を? ほんとですか?」


 本当である。こんなことで嘘は言わない。ちゃんとサシャの体格にあった剣を与える。

 今まで使っていた剣は、サシャの体格には合わない。

 腕力で無理やり捻じ伏せて使っていたが、もうちょっと小ぶりな剣の方が合う。


「やった! 楽しみです!」


 楽しみにしていて欲しいとあなたはサシャの頭を撫でた。

 さておき、そろそろ死んだろうかとあなたは熊を見やる。動きはしない。

 サシャに石ころを投げつけてみなさいと伝える。


「あ、はい」


 言われた通り、サシャが石ころを熊へと投げつける。

 ごしゃ、と鈍い音がするが、熊は動かない。どうやら死んでいるようだ。

 あなたは熊へと歩み寄る。転がしてサシャの剣を回収してやるつもりだ。


 熊の体へと手をかけたところで、熊が突如として動き出し、腕を振るった。

 あなたの頭部へと直撃する軌道だった。常人ならば即死するだろう威力がある。

 生死確認のための追撃を受けても反応せずに死んだふりをするとは。

 この森の熊が知能に優れ、異様に悪辣だというのは確かな評判なのだなとあなたは納得した。


 あなたは熊の腕を受け止め、そのままぐしゃりと握りつぶした。

 そして、開いている手を握って拳を作ると、熊の頭部へと拳を叩き込んだ。

 その一撃で熊の頭部が弾け飛んだ。さすがに即死だろう。


「ええ……」


 呆れたような、信じ難いものを見たような、そんな声だった。

 あなたは熊の死体を転がし、剣を引っこ抜く。見事にひん曲がっている。

 記念に取っておきたいなら持ち帰るがどうするかとサシャへと尋ねた。


「ええと、べつに必要ではないかなと……」


 そのようにサシャが言うので、あなたは剣をそこらへんへと放り捨てた。

 町まで持ち帰って下取りしてもらえれば多少の金にはなるのだろうが。

 べつにその程度の金が欲しいとは思わないので、持ち帰る手間を省いた。

 次に、あなたはレインへと解体するようにと伝えた。リベンジと言うわけだ。


「ええ。今度こそやってみせるわ」


 その後、レインは2回ほど乙女の尊厳を放出したが、解体そのものは無事に成功させた。




 


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