13.環境のいい職場で働くのは楽しいなって

「らっしゃい、三名様ですね! 奥の席へどうぞ!」

「あい、麦酒ビール三つに葡萄酒ワイン一つ、お待ち!」

「今日のおすすめは、新鮮な魚の揚げ物です! はい、こちらお一つですね! ありがとうございます! オーダー入りまーす!」


 俺は借りた前掛けを着けて、店の手伝いに入った。女将さんが料理を作り、言われるままに皿洗いや注文取り、配膳にと走り回る。こちらのお金のことはよくわからないので、会計には触らないでおいた。


 時間が経つにつれて客足は増え、俺も娘さんもてんてこまいというやつだった。俺と娘さんはこの仕事に慣れていないとはいえ、この忙しさを普段は女将さんと旦那さんだけで回しているのは、大したものだと思う。


 俺は居酒屋でバイトしていた経験を思い出し、だんだんと忙しさの波に乗っていった。たくさんの料理やジョッキが載ったトレンチを運ぶのなんて、お手のものだ。チェーン店みたいなマニュアルはないけど、元気があればなんとかなる。


 動き回りながら、俺はこの世界に来てから、初めて楽しいと思っていることに気が付いた。いや、働くのが楽しいと思ったことなんて、いつぶりだろう。

 そういえば、学生時代にバイトしてた、個人経営の居酒屋。あそこのオーナー夫婦は優しくて、バイト仲間もいい奴ばかりで、客も嫌なのは滅多にいなかったし、働くのが楽しかった。社会人になってからも、時々飲みに行っていた。だけど、このところ流行った妙な感染症の影響で、休業や時短営業を余儀なくされて、経営がだいぶ苦しいって聞いた。最近行けてなかったけど、大丈夫だろうか。


 っと、思い出にふけっている場合ではない。

 追加の注文を取って振り向くと、また入り口のドアが開いて、新しい客が入ってきた。


「いらっしゃいませ! おひとり様で? カウンター席にどうぞ!」


 新しく入ってきた客は一人のようで、黒いマントを羽織っていた。俯き加減でフードを目元まで被っていて、顔がよく見えない。男か女かもよくわからなかった。

 その奇妙な客はちらりと俺を見て、少しの間店の中に視線を巡らせると、俺が示したカウンター席に座った。


「ご注文は?」


 おしぼりやお冷なんかのサービスはない。そういえば、飲食店で水が無料で飲めるのは、水資源の豊富な日本だけだって聞いたことがある。


「……水、と……何かおすすめを」


 その客は低い声でぼそぼそと言った。

 酒場に来たのに、酒は頼まないのか。俺は思ったが、注文にケチをつけるのは失礼だろう。金さえ払ってくれれば客だ。


 俺は厨房にいる女将さんにオーダーを通し、出来上がった料理と水をその客の前に置いた。そうしている間にも、料理を手伝ったり、客の帰ったテーブルを片付けたりと、俺は忙しく働いている。さっきの奇妙な客が、俺をちらちらと見てくる気がするが、構っている暇はない。


 そして、その客も料理を食べ終えてグラスの水を飲み干すと、


「……勘定を」


 金を払って店を出ていった。追加の注文もなく、料理を一品食べ終わるまでの短い間しかいなかった。

 変な客だったなあとその背中を見送っていたが、


「おーい! こっち注文頼むよ!」

「はーい、ただいま!」


 呼ばれて、小走りでそちらに向かう。

 まだまだ忙しさは続く。次々と目の前の仕事をこなすうち、さっきの奇妙な客の記憶は薄れていった。

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