―三月―
第42話
春が来ようとしている。
窓から差し込む冬の気配を残す柔らかな日差しは天井まで届くような本棚によって遮られている。相変わらず薄暗い小さな古本屋は、今ではすっかり居心地の良い場所になってしまった。
店主夫妻は相変わらず自由気ままに地方へ買付やイベント出店をしている。一年を通して繁忙期と呼べる時期は夏休みの間だけ。それでもアマキ一人でも対応できる程度の忙しさだったので売り上げ的にはたいしたものではなかっただろう。
いつ店が無くなってもおかしくない。そう思っていたのだが店主からは「店のことは天鬼さんに任せとけば安心だよ。これからもよろしくね」と先日言われたばかりなので、どうやら新たなバイトを探す必要はなさそうだ。
一年経っても、この店の経営状態が見えてこない。そんなことを思っていると「ねえ、アマキ」と少し幼さの残る声がした。
「んー?」
アマキはレジカウンターから来客用のテーブルセットに視線を向ける。そこに座る小柄な少女はテーブルに頬杖をつき、ペン先をノートにトントンと当てながら「やっぱりアマキっていうのしか思いつかない」と言った。アマキは苦笑する。
「それ、なんか前にも聞いた気がする。一応聞くけど何の話?」
すると彼女は顔を上げて「あだ名」と答えた。
「やっぱりか。まだ考えてたの? まもなく一年経ちますけど?」
「しばらく考えてなかったけど、そろそろ考えようかと思って」
「なんで?」
アマキが問うと、彼女は少し考えるようにしてから「あだ名は特に親しみを込めて対象を呼ぶための名前」と言った。アマキは「そうだね。それも前に聞いた」と頷く。
「アオはアマキのことフジって呼んでる」
「うん」
「マッキーは天鬼さん」
「そうだね」
「それはつまり、アオはアマキのことを特別に思ってるってことでしょ? で、マッキーはアマキのことを特別には思ってない」
「んー、そうなのかな」
アマキは首を傾げた。
「違うの?」
「じゃあ、シロは槇本さんやナベくんのこと特別に思ってる?」
「特別……とは思ってない」
シロは眉を寄せる。アマキは苦笑して「でもシロは二人のことをあだ名で呼んでるじゃん」と言った。すると彼女は神妙な顔で「たしかに」と頷いている。
「だから別に呼び方で相手のことをどう思ってるかなんて決まらないんじゃない?」
「ふうん……」
シロはペンを置くと「じゃ、アマキでいいや」と椅子の背にもたれた。
「諦め早いな」
「ダメ?」
「まあ、いいけど。もう慣れちゃったしね。シロからそう呼ばれるの」
「わたしも慣れた」
彼女はそう言いながら立ち上がると、カウンターに近づいて来た。
「ん、何に? わたしをアマキって呼ぶこと?」
「アマキからシロって呼ばれること」
「ああ……」
アマキは笑う。
「あのときシロって言ったの。わたしの色のことだったんだよね?」
「うん。すごく綺麗な色だったから、つい口に出てた」
「そんなに白かったんだ?」
「今もだよ。アマキの色はおかしいくらい変わらないから安心する」
「ふうん。褒められてるのか微妙な言い方……」
しかしなんとなく、くすぐったい感じがしてアマキは無意味にパソコンの画面に視線を向けた。シロはカウンターに腕を乗せると「初めてだった」と小さな声で言った。
「え、なにが? ああ、白い色?」
視線を上げると彼女は「それもあるけど」と微笑む。
「あだ名で呼ばれたの」
「でも、わたしは本名だと思ってたんだよ。柊シロっていう変わった名前だなって思ってた」
「今はもう知ってるでしょ」
「柊朱音、だよね。名前」
「アマキは天鬼一藤」
「うん」
アマキはシロを見つめる。シロもまたアマキを見つめていた。彼女は「でも」と恥ずかしそうに笑う。
「今もアマキはわたしをシロって呼んでくれるし、わたしはアマキをアマキって呼んでる」
「アマキは本名だし」
「そうだけど」
「それにシロのことをシロって呼んでるのはわたしだけじゃないでしょ?」
「うん」
シロは頷く。
「クロもアオも、最近はマッキーもたまにそう呼んでくれる」
「嬉しい?」
「嬉しい。仲良しになったって感じがする」
「そっか。良かったね」
アマキは嬉しそうな表情のシロを見て微笑む。彼女は頷くと「でも、最初にそう呼んでくれたのはアマキだから」と言った。そして右手を差し出してくる。
「だから、わたしはアマキと特別になりたい」
「特別?」
「うん。特別な関係」
「友達とは違うの?」
「じゃあ、特別な友達」
「適当じゃん」
「関係の名前は何でもいい。わたしはもっとアマキと一緒にいたいだけだから」
アマキはハッとして彼女を見つめた。それはアマキがあのとき思ったことと同じ。
「……アマキは嫌?」
不意にシロは不安そうな表情を浮かべた。アマキは微笑むと首を横に振る。そして差し出された右手へ視線を向けた。
「これは?」
「握手」
「……特別になるのに握手が必要なの?」
「……普通は違うの?」
「んー、わかんない」
アマキは苦笑すると「でも、いいか」とシロの右手を握った。
「わたしたちの普通は、これで特別な関係になるってことにしよう」
「うん。よろしく、アマキ」
「よろしく、シロ」
アマキはシロと微笑み合う。そのとき「フジ、いるー?」と碧菜の声が店内に響き渡った。
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