第35話
温かい。ぼんやりとする意識の中でアマキは思う。さっきまで寒かったような気がするのに、今はなぜか心地良い温もりに包まれている。不思議に思ってそっと瞼を開けると胸元にコートがかけられていることに気がついた。そして「あ、起きた」と言う聞き慣れた声。
「……ん、アオ?」
何度か瞬きをしながら身体を起こして声の主を探す。すると、すぐ隣にアマキと寄り添うように座った碧菜の姿があった。アマキは「なんで――」と言いかけたが、彼女の顔を見てその言葉を呑み込む。
「よ。おはよ、フジ」
いつもと変わらぬ調子で言う碧菜。しかし、その頬には大きな湿布が貼られていた。目元も腫れているのか、痛々しく紫に変色している。
「え、なに。これどうしたの、アオ」
呟きながら彼女の顔に触れる。すると碧菜は痛そうに顔をしかめた。
「あ、ごめん」
慌てて手を引っ込めながら「でも、ほんとにどうしたの」と碧菜の顔を見つめる。
「ていうかアオ、今日来てなかったよね? 休みかと思ってたんだけど」
「いや、来てたよ。普通に来てた」
彼女は笑みを浮かべながら言う。アマキは首を傾げる。
「でも教室にはいなかったでしょ。少なくとも一限までは」
「あー。フジは一限からサボってたのか」
言われて、ふと今が何時なのかわからないと気づく。アマキはスマホをポケットから取り出した。そしてその画面に表示されている通知を見て「え……」と声を漏らす。そこには碧菜からのメッセージや着信が何十件も入っていた。
「教室行ったらフジいないしさ。全然連絡取れないんだもん。心配しただろ」
彼女は言いながらアマキの身体にかかっていたコートを取るを自分とアマキの膝にかかるよう置き直した。
「待って。ちょっと理解が追いつかない」
「よく寝てたからなぁ」
「いや、そうじゃなくて。えっと、うん。まず、なんで怪我してんの? 事故?」
「ケンカ」
平然と彼女は答えた。
「は? 誰と」
「フジのバカみたいな噂を流した張本人」
碧菜は心から不愉快そうな表情を浮かべて舌打ちをした。
「本当はあいつの謝罪動画でも撮って流してやろうかと思ったんだけどさ、そういうのフジは嫌だろうなって思ったから。だから殴って黙らせるだけにしといた。あと、ナベにも怒っといた。そもそもの原因はあいつが思わせぶりな態度取ってたことだからな。あいつは良い奴なんだけど、そういうとこあるんだよなぁ。はっきりさせないっていうか。だから勘違いバカ女がつけあがるんだ」
「……全部、知ってたんだ?」
アマキの言葉に碧菜は「当然」と笑った。しかし、すぐにその笑みは曇る。
「っても、ほんとはマッキーから聞いたからなんだけど」
「槇本さん?」
「シロちゃんが最初に気づいてたんでしょ? あの女にケンカ売って危うく殴られるところだったって」
彼女はそう言うとアマキを見て悲しそうに笑った。
「フジ、何にも言ってくれないんだもんなぁ。まあ、シロちゃんにも言ってなかったみたいだけど……。なんで言ってくれないの?」
――どうして言ってくれなかったの?
脳裏に蘇った過去の誰かがそんなことを言ってくる。心配したような振りをして。
「何を?」
「何をって……」
「わたしが男のことで陰口を叩かれて、アリもしない噂話を流されてるって?」
「……フジ?」
碧菜の眉が寄せられる。そんな彼女を見ながらアマキは「言えるわけないじゃん」と続ける。
「言ったところで何かが変わるわけでもないし。それに、その噂話を流すことに誰が関わってるのかもわからないのに」
瞬間、碧菜は怒った表情を浮かべた。しかしすぐに「そっか」と力なく項垂れる。アマキはハッと我に返って「ごめ……」と碧菜に謝りかける。しかし、その謝罪の言葉を言い切ることはできなかった。
本当にそういう気持ちもあったのだ。もしかするとアオだって、と。
「知ってるよ」
彼女は顔を上げると微笑んだ。
「フジの中学の頃のこと」
「え……」
アマキの心臓が強く鳴った。
「なんで……?」
「フジと同じ中学の子と友達だから」
「……へえ。いつから?」
「高一の夏」
「なんだ。じゃ、最初から知ってたんだ? わたしがいじめられてたって」
「うん」
「友達なんて誰もいなかったって」
「うん」
「それで面白がってたの? そうだよね。変だと思ってた。だって、わたしはアオの友達とは全然タイプ違うし。あ、もしかしてアオもわたしのこと陰で――」
そのときパンッと頬に鋭い痛みが走った。一瞬、火花が散ったかのように視界が白くなる。そしてアマキは呆然と碧菜の顔を見つめた。
彼女は、静かに泣いていた。
「わたしは……っ!」
碧菜は何かを我慢するように一度息を吸い込むと「わたしはさ」と泣きながら微笑む。
「単純にフジと友達になりたかったんだよ。本当に、ただ友達になりたかっただけ」
「だから、それがよくわかんない。なんで? 別に接点もなかったじゃん。ただ同じ委員だっただけで」
「知ってた? わたし、一年の最初はクラスですごく浮いてたって」
「え……」
そんなはずはない。碧菜は最初からクラスで人気者で友達も多くて、アマキとはまるで別の世界に生きているような、そんな子で。しかし碧菜は「浮いてたんだよ、わたし」と続けた。
「わたし、ウザいでしょ? 距離感がおかしいって昔から言われてた。でもそれはどうすることもできなくて。最初はみんな引くんだよ。顔は笑ってても、仲良くなろうなんてしてくれない。そのうち慣れてきて仲の良い振りをしてくれるんだけどね」
「振り……?」
「そう。わたしの友達のほとんどは友達の振りをしてくれる友達だよ」
「なにそれ。そんなの、友達じゃ――」
「違うんだろうね、普通は。でもそれがわたしにとっての友達。一人でいるよりはマシだから」
碧菜は笑う。そこにいるのは、いつもの勝ち気で自信満々の彼女ではない。まるでその正反対だ。彼女は力ない笑みで続ける。
「でも、フジは違ったから」
「わたし?」
アマキは眉を寄せた。
「うん。フジは最初から普通に接してくれたじゃん?」
「そう、だった?」
覚えていない。しかし碧菜は「そうなんだよ」と少し嬉しそうに頷いた。
「だから、友達になりたかった。だけどフジを見てるうちに気づいたんだ。フジは他人と深く関わることを怖がってるって。でもわたしは仲良くなりたかった。だから、調べたの」
「わたしの中学のこと?」
「そ。引いた……?」
「別に……。そっちは?」
アマキは碧菜を見ながら聞く。彼女は「わたしは引かないよ。だって、フジは悪くないじゃん」と答えた。
「全然悪くないよ。ただ周りの人間に恵まれてなかっただけ」
「そうかな」
「そうだよ。それに比べて今はラッキーだね。フジのことを大切に思ってる人間が少なくとも二人はいる」
「アオ?」
「うん。それと、シロちゃん」
「……わたしのために怒ってくれた?」
「違う」
碧菜はきっぱりと言った。アマキは不思議に思いながら首を傾げる。すると彼女は「わたしがムカついたからやっただけ」と笑った。その答えにアマキは思わず吹き出してしまう。
「え、なに。いま、けっこうかっこよくキメたと思ったんだけど?」
「いや、それ、シロも言ってたから」
「うっそ、マジで? 先越されてた? ダッサいなぁ、わたし」
「ううん」
アマキは首を振り、そして痛々しい彼女の顔に手を添えた。
「全然ダサくない。かっこいいよ。すごく、かっこいい」
「――じゃ、いっか」
碧菜は嬉しそうに笑うと「ところでさ」とスマホを取り出した。
「噂はどうする? やっぱりあの女の謝罪動画撮りに行く?」
「行かない」
アマキは笑って言いながら碧菜に寄りかかる。体温が高いのか、彼女に触れている部分がポカポカしてくる。
「ほっとけばいいよ。どうせただの噂なんだし。それに」
アマキは言葉を切って碧菜を横目で見る。彼女は怪訝そうに「それに?」と眉を寄せた。
「中学の頃と違って、わたしは一人じゃないみたいだし」
その言葉に碧菜はパッと満面の笑みを浮かべた。
「まあね! 親友がここにいるわけだし?」
「はいはい。それよりさー」
言いながらアマキは自分のスマホを取り出した。碧菜は不服そうに「流さないでよ」と文句を言う。それを無視してアマキは「もうすぐクリスマスじゃん?」とカレンダーを開いた。
「そうだね。クリスマスだね」
「アオは彼氏とデート?」
「……別れたって言わなかったっけ?」
「いや、また新しく出来たかなと思って」
「嫌味かな?」
アマキは笑いながら「じゃあ、ちょうどいいや」とスケジュールを開く。
「何かあんの?」
「パーティしたいな」
「え?」
「わたしとシロとクロ、それからアオでさ。やらない? 場所はこれから決めるとして」
「――いいの?」
信じられないと言った様子で彼女は言う。きっと去年のことを思い出しているのだろう。去年は碧菜からどんなに誘われても頑なに断り続けていた。しかし、今年は少し気持ちが違う。
「まあ、アオがやりたくないなら無理にとは言わないけど」
「やりたいです!」
「素直でよろしい」
アマキは笑うとスケジュールに予定を入れる。
「まだシロとクロには聞いてないんだけど」
「きっと大丈夫だよ。あの二人、ぜったい暇してるって」
「だといいけど」
「えー、どんなパーティにする?」
嬉しそうに考え始めた碧菜をアマキは見つめる。去年までなら絶対にクリスマスパーティなんかに参加はしなかった。自分でやりたいと言い出すこともなかった。ただいつも通りの一日を過ごすだけ。
けれど、今年は違う。
別にクリスマスじゃなくてもいいのだ。ただ、みんなで集まる機会が欲しかった。そこで気持ちを伝えたい。そばにいてくれてありがとう、と。
きっとそんな素直に伝えることはできないだろうけれど。
――この気持ちは、普通はどういうふうに伝えるものだろう。
自分にとって友達という関係がどういうものなのか、まだちゃんと理解できていない。しかしきっと、シロや碧菜、そしてクロとの関係はそれに近いものなのだろう。
アマキはフフッと笑う。
「え、なに」
「ううん。なんでも」
「やっぱさ、カラオケとか行きたくない?」
楽しそうに話し始める碧菜の声に被って、チャイムが鳴り響いた。
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