―八月―

第16話

 夏休みは学生にとって稼ぎ時となる時期である。アマキもまた例外ではなかった。といっても、週に一日か二日だったシフトが二日か三日になったという微々たる変化。八月は古書イベントが普段よりも多く開催されるのだそうだ。店主夫妻が嬉しそうにそう教えてくれた。

 店主夫妻は参加したイベントで出店もしているようで、たまに普段の仕事内容に本を段ボールに詰め込む作業が加わることがあった。つい先日出店したイベントは大規模なものだったらしく、店主たちも張り切って選りすぐりの本たちを段ボールに詰めていた。ちなみにそれが売れたのかどうかはわからない。

 店舗の方では夏休みに入った途端、大学生と思しき客が何やら小難しい本を購入していくことが増えていた。どうやらこの店は今ではなかなか手に入らない専門書が多いらしく、真面目な学生には人気があるようだった。といっても忙しいというほどではなく、アマキは相変わらずのんびりとしたバイト時間を過ごしていた。


「ありがとうございました」


 一冊の古い辞書のようなものを購入していった学生を見送り、アマキは一つため息を吐くと椅子に腰を下ろした。そしてテーブルに視線を向ける。そこではクロがノートと参考書を広げて難しい顔をしていた。シロはその隣で本を眺めている。

 クロが初めてこの店に来てから二週間。その間にアマキがバイトに入ったのは今日で五日目。クロはその全ての日にシロと一緒に店に遊びに来ていた。そして騒がしくお喋りをしたり、勉強をしたりして帰って行く。

 悪い子ではない。むしろ、きっと良い子なのだ。シロの言うことは素直に聞くし、アマキにだって無邪気に話しかけてくる。しかし彼女がこの店に来るたび、アマキの中にはよくわからないモヤモヤが広がっていく。

 今こうしている間も、そのモヤモヤは広がったままだ。その正体を自分の中で探ってみるものの、よくわからない。


 ――まあ、いいか。別にどうでも。


 そう思ったとき、ふとシロがこちらを見ていることに気づいた。その表情はなぜか不安そうだ。不思議に思ってアマキは首を傾げる。


「シロ、どうしたの?」


 声をかけると彼女は「別に」と短く答えて本のページをめくった。


「ふうん」

「シロね、最近なんか機嫌悪いの」


 勉強に飽きたのか、クロがノートから顔を上げた。


「そうなの?」

「うん。なんか、ちょっと怖い顔してる」

「怖い顔……」


 アマキはシロを見つめる。彼女は本へ視線を落としたまま顔を上げない。


「よくわかんないけど」

「えー。アマキはダメだなぁ。シロ、怖い顔してるじゃん」

「いや、ダメと言われても……。ていうか、クロは今日のノルマ終わったの? それ、夏休みの宿題でしょ?」


 アマキの言葉にクロはグッと怯んだような様子を見せた。そしてノートを持って移動してくるとカウンターにそれを置く。


「アマキ、これ教えて?」


 彼女が持ってきたのは数学の問題だった。アマキは「えー」と苦笑する。


「シロに教えてもらいなよ。いつもそうしてんだから」

「……シロ、なんか怒ってるからやだ」


 クロはムゥッとした顔でカウンターから離れない。

 そういえば、確かに今日はシロがいつもより喋らない気がする。普段はクロが悩んでいればすぐに気づいて教えてあげるのに、今日は知らんぷりを決め込んでいた。


 ――なるほど。たしかになんか怒ってる感じだ。


 アマキはようやくクロの言葉に納得した。そしてため息を吐く。


「シロー、クロが困ってるよ? 教えてあげなよ」


 アマキの声にシロはチラリと視線を上げたが、すぐに本へ視線を戻してしまった。どうやら教える気はないらしい。アマキは「まったく……」とクロが広げたノートに視線を向けた。


「わたし、ほんと数学苦手なんだけどなぁ。中学レベルも危ういって最近気づいたのに」


 そのとき、店のドアベルが鳴った。客が来たようだ。


「あー、クロ。ごめんね。あとで見てあげるからテーブルに戻っててくれる?」

「うん。わかった」


 素直にクロは頷いてテーブルへ戻る。良い子なのだ。本当に。素直で裏表もなさそうで。それなのに、やはり彼女と話すと胸のどこかがモヤモヤする。


 ――なんなんだろ、これ。


 無意識にアマキがため息を吐いたとき「客の前でそれはないんじゃない? フジ」と聞き慣れた声がした。反射的に視線を戻すと、カウンターの前には来店した客の姿があった。アマキはその姿を見て「いやいや」と苦笑する。


「なんで来てんの? アオ」


 私服姿の碧菜は手に提げていたコンビニ袋を軽く掲げて「差し入れついでに様子見」と笑った。


「様子見って……。来るのは遠慮してって言わなかったっけ?」

「言ってたねぇ。でも、いつまで経ってもフジが許可してくれないからさぁ。もういっそのこと無許可で行ってしまえと自分会議で決まりまして」

「なんでそうなる。てか、バイト先教えたっけ?」

「前に店名だけ教えてもらったから調べた」

「ああ、そういえば」


 夏休みに入る直前、あまりにも碧菜がしつこかったので教えた気がする。そのときも彼女はしきりに店に来たがっていたのだが、やはり断ったのだ。シロが嫌がるんじゃないかと思ったから。しかしシロは相変わらずクロを店に連れてくる。だったら別に碧菜が来ても構わないのではないか。

 今ではそんな気持ちになっていたので、彼女の行動を咎める気にはならなかった。

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