禍の中

伊吹 藍(いぶき あおい)

禍の中

 大学の三号館の五階から眺める薄曇りの空は明るかった。

 そんな明るさに胸の苦しさを感じる。この胸の苦しさは病から来るものではない事は明白であった。しかし、私にはこの胸の苦しさの理由がはっきりと分からなかった。


 二限を終えた後の昼休み。ふと振り返ると廊下には学生も教授もいない。私はマスクを付け直して階段をゆっくりと下りる。タン、タン、と私の足音のみが三号館に響き渡る。四階にも三階にも、暗い廊下に教室が並んでいるだけで人は誰もいない。一階の食堂では、さっきまで書道の講義を受けていた同士がたった数人、食事をしていた。私は、この大学を呼吸をしていないと思った。大学を一歩出ると空気は一変し、渋谷のなんともいわれぬ冷たい空気が鼻に抜ける。


 十月半ばにしては、今日は随分と冷え込む。まったく、一限はオンライン授業なのに二限が大学で授業というのも面倒なものだ。家で受けられる講義をわざわざ大学で受けなければならない。マスクをして新型ウイルスに怯えながら、朝の満員電車に乗らなくてはならない。これも毎日なら慣れるものだろうが、週に一回、火曜日だけだから無駄に疲れが積もる。


 トボトボと坂道を下る。背中ではリュックサックに入った書道道具がカラカラと音を立てている。そんな音を聞きながら、レンガの細い洒落た一本道にも金王神社前の巨大な鳥居にも渋谷のビル群にも、好奇心が湧かなくなっていたことを自覚した。


 ふと気がつくと渋谷駅へ向かうエスカレーターの前に立っていた。はて、どうやってここまで来たのか、記憶がない。まぁ帰宅できればいいのだ。


 エスカレーターに乗ると、唐突に酷い眩暈が私を襲う。危うくバランスを崩して落ちそうになって、ぐっと手すりにしがみつく。今日は朝から腹を下したり、ぼんやりとしていたり、眩暈に襲われたり、体調が芳しくない。さっさと帰ろう。

 

 改札へ向かう道、すれ違う人はみなマスクをしている。見慣れたつもりでいたけれど、やはり何度見ても異様な光景である。みな顔を半分隠しているにもかかわらず、不安げかつ不満げな雰囲気がひしひしと伝わってくる。実に妙で、気持ちが悪い。殊に私もそんな人の森の一本の木であることもまた気持ちが悪い。


 多くの人とすれ違いながら、私は改札へとたどり着いた。ICカードを自動改札機にやって改札を抜ける。そうして、ただまっすぐホームへ向かう。眩暈の後遺症かまだ若干のふらつきがあった。私は手すりををしっかりと掴んで一歩一歩慎重に階段を上った。地下から階段を上ると大学で見たのと同じ薄曇りの空が私の視界を支配する。明るくて、しかし青空ほど明るくもない。ぼんやりとしていてただ真っ白な空が。そのまぶしさに再び胸が苦しくなる。ずっと家に居たからか体力が落ちている。息があがっていた。

 

 なんとかホームにたどり着くと、ホームは閑散としていた。とても渋谷駅のホームとは思えない。少なくとも今しか見られない光景だろうなと思いつつ、ホーム内のベンチを探す。

 ベンチが無い。困ったな。電車が来るまであと二分弱、体調は悪化の一途をたどっていたが、ひとまず私は点字ブロックの内側で待つことにしようと思っていたその時だった。今日一番の眩暈が私を襲い、足がもたついて絡まって線路へ落ちてしまった。


 右腕、腰に鈍痛が走る。早く線路から脱出しなければ大事故になってしまう。私は立ち上がろうとする。しかし、体は意に反してまったく動かない。ただ、それは眩暈のせいでも鈍痛のせいでもなかった。私は線路に落ちたことを、どこか運命のように感じていた。このままでは電車に轢かれて死んでしまう。そんなことは分かっている。しかし、私は不思議とそれを受け入れていた。

 今、立ち上がれない理由はわからない。わからないけれど、多分もう疲れたのだ。疲れ切って動けないのだ。


 ふと思うのは、なんのために大学に入ったのかだった。自分が大学に入ってやりたかったことも、得ていたはずであろう学友も得られなかった。同級生の顔さえほとんど知らない。独り部屋に籠ってモニターを睨み、ひたすら課題をこなすだけのオンライン授業と、新型ウイルスに怯えながら週に一度だけ大学へ通う。これは果たして「大学生」なのだろうか。私はこんな手探りのキャンパスライフと漠然とした不安な未来に疲れ切っていたのだ。


 カンカンと警報機が鳴り始めた。やはり体は動かない。もはや動かす気もなかった。眩暈と鈍痛と胸の苦しさと漠然とした不安を抱えて、私は一生を終えるのだ。こんなことになるのなら、書道の講義で遺書でも書いておくべきだったか。はぁ、生きていくということは嫌なことだ。つらくて悲しいものだ。


 電車の車両が見えてきた。もう、すぐそこまで来ている。

 私は一言、「悔いをひとつ」とつぶやいた。

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