イズミの世界
イズミが創り上げたであろうこの世界に、いつの間にか俺は放り込まれていた。
ヒーローとして。理屈はわからないし、知る由もない。あるいは全部夢の可能性だってある。俺が見てる夢か、イズミが見てる夢か判別することはできないが。
とにかくこの箱庭みたいな小さな世界で与えられた役割はヒーロー。みんなを、いや、この世界を守るヒーローだ。
ドームの中には保育園があって、保育園の中には家がある。家の中は、リビングと寝室が2つ。1つは俺の部屋。そしてもう1つは、イズミと母親の部屋だ。
「ただいま」
エレベーターのドアが開くとそのままリビングに繋がっている構造。
帰ってくると同時に靴はどこかへ消えて裸足になっている。これもおそらくは、上手く靴紐が結べないイズミが楽をするために構築した設定なのだろう。母親からそういう話を聞かされていた気がする。
「おかえりなさい」
飛びきりの笑顔で出迎えてくれたのは母親だ。いや、違う。母親であって母親ではない。これもあくまでもイズミが創り上げたものの1つ。母親の役を演じているただのキャラクターだ。
「ああ」、と一言だけ返すと俺は自分の部屋へと向かった。ただのキャラクターとわかってはいても目を見て話すことは、まだできなかった。
この母親は気づいているのかいないのか、こんなに冷たい態度を取られているのに何も言わない。仕事に行くときは見送って、帰宅すると出迎えて。そして笑顔を崩すことはない。そう、崩すことはないんだ。
部屋に入ると冷蔵庫から冷えたビールを2缶取り出す。まずは一気に飲み干し、さらにもう一本の蓋を開けてシングルベッドへと腰掛ける。ルーティンだ。夜のルーティン。
頭がフラフラになる。動悸が激しくなる。これでいい。これがいい。そうして部屋の外に耳を澄ませると、決まってイズミと母親の会話が始まるんだ。
──────────
「……パパは?」
「部屋に行ったわ」
「そう。今日はね、人形で遊んだの。砂場に怪物を埋めて、私がねやっつけるんだよ」
「ふーん、どんな人形なの?」
「ケムクジャラに、トイレットファントムに、金切りマジン。そしてね、初めて登場した怪物がいてね。ホウチョウ馬車っていうんだけど、ホウチョウ馬車をたおすと土の中から出てくるんだ」
「……何が出てくるの?」
「あっ、うーんとね、それは、秘密なの」
「ふふ、また秘密?」
「うん、秘密なの」
──────────
「秘密」、という言葉をイズミはよく多用する。どういう意味で秘密なのかはまだわからないが、もう1つ秘密の話があるようだ。
──────────
「……ねぇ。部屋に来て」
「うん、秘密のあれね」
「そう。パパには絶対に秘密だからね」
──────────
それで会話は終了となる。たぶん、その秘密を共有したあとにそのまま眠ることになっているのだろう。夜のルーティンだ。
2本目の缶ビールを飲み干すと、そのままベッドへと横たわった。ぼんやりとする頭の中で、今日の出来事とイズミの会話を結びつける。
意味はあるんだ。怪物に意味があるように、この世界の全てにイズミの心の中が反映されている。
だから一つひとつの意味を見つければあるいは、この世界から抜け出すことができるかもしれない。
とは言っても抜き出してどうする? どうなる? イズミは外の世界に出たくないからこんな世界を創ったんじゃないのか? ここでは俺はヒーローでいられても、現実の世界はそうじゃない。
……ただのしがないサラリーマンで、イズミの父親で、母親から逃げ回っているろくでもない父親だ。
そんなことをぐるぐると頭の中で巡らせているうちに、心地良い気分になって瞼が重くなってくる。
それでいい、きっとそれでいい。イズミの求める父親はきっと、なんでもできるヒーローのような父親なのだから。
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