第308話
九月。爽やかな陽気の日――ぼくは宏ちゃんと、センターにいた。
定期健診と……ヒートの後の、メンテナンスに来たんよ。
「うん、フェロモン値は正常に戻ってる。生殖弁に傷もない。子宮の状態も良かったし……大丈夫そうだね」
中谷先生が、にこにこ顔で診断結果を伝えてくれる。
ぼくは、ぱっと笑顔になり、頭を下げた。
「ありがとうございますっ。じゃあ、次は三か月後に来るんでしょうか……?」
「うん、また経過は診ていくことになるけどね。その予定でいて良いと思うよ」
「わあ……!」
中谷先生の太鼓判に、隣に座っていた宏ちゃんと、ぱっと顔を見合わせる。
「中谷先生、ありがとうございます。よろしくお願いします」
宏ちゃんは真剣な表情を和らげて、先生に頭を下げてくれた。
ぼくも、ほうと胸をなでおろす。
――良かった。次も、きちんと来てくれるんや……!
十四歳の時みたいに、経過観察になったらどうしようって、ちょっと不安やったん。
すると、宏ちゃんが繋いだ手に、そっと力を込めた。
「成、大丈夫だよ」
「宏ちゃん……ありがとう」
優しい眼差しに、ほほ笑み返す。――大きな手の温もりが、心強かった。
「成己くん、宏章さん。機会は沢山ありますよ。焦らず、ゆっくり行きましょうね」
「……はい!」
中谷先生が穏やかに締めくくり、診察は終わったん。
診察室を出ると、宏ちゃんが笑顔で振り返る。
「お疲れさん。朝から大変だったな」
優しく労われ、胸がじんわり温かくなる。
「ううんっ。宏ちゃん、ついててくれてありがとう」
「当たり前だろう」
二人で笑い合っていると、「成ちゃん」と声を掛けられた。
「涼子先生!」
「成ちゃん、宏章くん。来てたんやね!」
溌溂とした足取りで、先生は駆けよって来てくれはった。
ぼくからも駆け寄る。ちょうど――先生に、大切な用事があったんよ。
「涼子先生、おめでとうございますっ。これ、ぼくと宏ちゃんから!」
ぼくは笑顔で、涼子先生にお祝いを渡した。先生は、目をまん丸にしてる。
「あれぇ! こんな、ええのっ?」
「えへへ。お祝いしたかったんよー。先生、本当におめでとう」
色々あって、遅くなっちゃったんやけど……ちょっぴり気恥ずかしい思いで言う。すると、涼子先生はレモン色の袋を抱いて、声を滲ませた。
「悪いわあ、成ちゃん。ほんまにええ子やなあ……いつも、気遣ってくれておおきにな」
「涼子先生……」
ふくふくした手に、両手をぎゅっと握られる。幼い時から変わらない温もりに、じんわりと目が潤む。
――大好きな先生。今日は……ちゃんと言わなきゃ。
見守ってくれている宏ちゃんを見、覚悟を固める。
ぼくは、ペコリと頭を下げた。
「涼子先生、あのね……ごめんなさい」
「ん? 何がなん」
先生は、目をぱちりと瞬く。ぼくは、先生の目を見て、もういちど謝った。
「”あの時”のこと、ずっと謝りたかったんです。ぼくが、馬鹿なことしたせいで……先生の足を引っ張っちゃったこと」
「……!」
十年前、赤ちゃんから育てたぼくが起こした、ある事件。管理不行き届きとして、教育係の先生が責任を取らされたって、聞いた。
――馬鹿やった。くだんない寂しさに負けて、あんなこと……
そのせいで……涼子先生は、ずっと望む仕事ができないでいたんやから。――ずっと、後悔してたん。
「ごめんなさい。あのとき、ぼくがセンターを脱け出したりせえへんかったら……」
「……成ちゃん」
涼子先生が、沁みるような声でぼくを呼んだ。
そして――温かい指が、頬をぎゅっと摘まむ。
「いひゃい!」
「この、ド阿呆!」
目を白黒させるぼくに、先生はにっと笑う。
「成ちゃんは、水くさい! そんなん、当たり前やないの……うちは、成ちゃんの先生なんやで!」
「涼子先生……」
両頬を、ふくふくした手に包まれた。
「ありがとうね。うちは、成ちゃんみたいな優しい子を見守ってこれて、幸せやった」
「……ぼくも! 先生が、お姉ちゃんで……本当に幸せやったよ」
優しい言葉に、胸が詰まる。
ぼくの気持ちも伝えたくて、必死に言い募ると――「わかってるよ」って、先生は微笑んだ。
「次の子にも、そう思ってもらえるよう頑張るわ……成ちゃん、応援してくれる?」
「……うんっ!」
ぼくは、力強く頷いた。
「さようなら……!」
お仕事に戻っていく涼子先生を、手を振って見送った。
緊張がとけて――少しふらついてしまう。すぐさま、宏ちゃんに抱き留めてくれた。
「大丈夫か?」
「うん。安心しただけ……」
にっこりして、宏ちゃんに寄りかかる。芳しい木々の香りを嗅いでいると、とても落ち着く。
「良かったなあ、成……な、大丈夫って言ったろ」
「うん。宏ちゃんのおかげ」
感激が尾を引いて……最後まで、言葉にならない。
――宏ちゃんが、居るから。勇気が出せたんよ。
感謝を込めて、力いっぱい抱きしめる。
胸に顔を埋めて息をしていると、宏ちゃんはくすぐったそうに笑った。
「なんだ? くっつくの好きか」
「うん。宏ちゃん、好き」
「……可愛いなあ、お前は!」
ぎゅう、と苦しいほど抱き返され、悲鳴をあげた。
うりうりと頬ずりされて、顔がほころぶ。大きな体に包まれていると……心が満たされちゃう。
――……ありがとう。
穏やかに笑う宏ちゃんの頬に、そっと手を伸ばす。そこには大きな湿布が貼られていて、すごく痛々しい。
「……宏ちゃんの頬、診てもらわなくて良かったん?」
「ああ、これくらい何でもないよ」
宏ちゃんの怪我は、ぼくを守るためについたものらしいねん。
あの夜――ぼくが眠ってから、ヒートが来たんやって。宏ちゃんは、ぼくを壊さないように……自分を傷つけてまで、抑制剤を打ってくれたんだ。
――宏ちゃん、優しすぎます……
きゅう、と痛む胸を押さえる。
ぼくね……本当言うと、残念やったん。二人で楽しみにしてたヒートが、どうして起きてるときに来なかったんやろうって。
でも、宏ちゃんがぼくを守ってくれたって聞いて……すごく愛おしくなったんよ。
「成。どうしたんだ?」
穏やかな声が、訊いてくれる。ぼくは応える代わりに、うんと背伸びして、湿布の上にキスをした。
「……!」
「えへ。早く治るよう、おまじない」
目元を赤らめる宏ちゃんに、にこっとほほ笑む。
「待っててね! 次は、こんな目に遭わさへんからっ」
そして叶うなら――番になりたいって、思うよ。
もう二度と、あなたと離れないで済むように……そう願って、腕に飛び込んだ。
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