第300話

 一時間後――

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 勢い込んで、野江邸を飛び出して来たぼくは、ビル街で途方に暮れていた。

 

「宏ちゃん、どこ……」

 

 堅牢なお邸を抜け出すまでは、上手く行っていたんやけど。

 セキュリティ会社の担当者さんを訪ねてみたら、「帰られました」って言わはったん。たしかに、待ち合わせは午前で、今は夜なんやもん。

 とっくに、お開きになっているはずやった。

 

「うう、ばか……ちょっと考えたらわかるやん~!」

 

 宏ちゃんに所在を尋ねようにも、なんでかスマホも繋がらないし……万事休すですっ。

 つい、カッとなって出てきてしまったけど。大人しく、宏ちゃんの戻るのを待っていたら良かったのかもしれへん。

 

「でも……じっとして居られへんかったんやもん……」

 

 なんだか、宏ちゃんが誤解されているような気がしたんよ。……ずっと一緒に居たご家族相手に、生意気かもしれへんけど。

 とぼとぼと、人波に乗って街を歩く。

 

「とはいえ、帰らないとやんね。啖呵切った手前、気まずすぎるけど……」

 

 ビルの隙間を、赤い光が僅かに顔を出すだけで――空はとっくに夜色に染まりかけていた。街を行く人たちも、とっぷりと影に飲まれている。少し奥まった通りの方で、居酒屋さんの呼び込みが聞こえた。

 

「なんか、甘い匂いしないか?」

「ああ。桃みたいな……」

「誰かの香水かな。頭がくらくらする……」

 

 ぼくの後ろを通った、サラリーマン風の人達の言葉に、ハッとする。

 ここに一人で居たら、宏ちゃんに心配をかけてしまう。

 

 ――電車できたけど……ちょうどラッシュになるかな。バスも同じやろうし……

 

 うんうんと思案して、センターに送迎をお願いすることにした。

 ぼくは、煌々と明りを吐くドラッグストアの前に立ち止まって、スマホを取り出す。

 

「……あれ?」

 

 凄いスピードで移動する人波を眺めながら、呼び出し音を聞いていたぼくの目に――あるものが飛び込んできた。

 

「蓑崎さん……?」

 

 彼らしき人が、二人の男性に肩を抱かれ――裏通りに入っていったのが、見えたん。ぼくは思わずスマホを下ろし、まじまじと彼の消えた先を凝視した。

 

「見間違い……? ほんの一瞬やったしな……」

 

 でも、夜目にも艶やかな黒髪に、白い横顔――細身の長身は、あまりに目立っていた。

 

 ――本当にあの人なら、事件に巻き込まれてるって可能性もある……?

 

 蓑崎さんは、抑制剤が効かへんって言うてたし。――男の人に、人形みたいに肩を抱かれていた。もし、ホントに蓑崎さんなら、大変なことになるんじゃないやろうか。

 ぼくは、気がつけば後を追っていた。

 

 

 

 

 とても明るい看板で、小さく区切られたお店の通りを、恐々と通り抜ける。

 こういう通りは初めて来たけれど――明るくて賑やかやのに、なんだか暗い感じがする。ぼくは、バッグの紐をきつく握りしめ、早足に蓑崎さんの後を追った。

 

「……あっ!」

 

 しばらくすると、ぴたと足が止まる。

 蛇行するような人の動きに、ぶつからないように苦労しているうちに、見失ってしまったん。

 

「しまったぁ……いったい、どこに」

 

 慌てて辺りを見回せば――「休憩」とか「宿泊」と書かれた看板のついた建物が並んでる。

 ぼくは思わず、「あ」と呟いた。

 

 ――こ、ここって、噂の……?

 

 現実感のなさに、頭がくらりとする。

 一人で、とんでもないところにきてしまったような気がして、脚が震えだした。

 

 ――お、落ちついて! とにかく、人の多いところに、いったん戻らなきゃ……!

 

 慌てて踵を返す。

 すると、悪いことって重なって――後ろから来た人に、ぶつかりそうになった。

 

「おっと」 

「あ……ごめんなさいっ」

 

 サラリーマンらしき男の人に、頭を下げた。

 男の人は、どこかぼんやりしていて、眼鏡のレンズの奥の目が赤く潤んでいた。どことなく、息が荒い。

 

「……えと、本当にすみませんでした!」

 

 なんだか怖くなって、もう一度頭を下げる。

 足早にその場を離れようとしたんやけど……足音が、付いてくる。トコトコと、どこまでいっても。

 

「……!?」

 

 おそるおそる振り返ると、さっきのサラリーマンの人が、鞄を振りながら追いかけてきていた。

 

 ――うわあ!? 怖いよ~~!!

 

 泣きたい気持ちで逃げた。でも、人の動きに苦労する内に、遂に肩を掴まれてしまう。


「やっ!」

「追いついた。何で逃げるんだよ」


 ねばっこい声に囁かれ……走馬灯が見えた。

 宏ちゃんごめんなさい。こんなところに来たから、罰が当たったんだ。


「放してください!」


 なんとか振り払おうとしたとき――唐突に、腕を引き寄せられた。


「!」


 ふわりと、柑橘のように爽やかな香りが鼻を掠める。

 間近に、真黒い制服の襟が見えて、ぼくは目を瞠った。


「おっさん、嫌がってんだろうが。離しなよ」

「いだだだ!」


 おじさんの苦悶の悲鳴が、辺りに響く。

 ぼくを庇うように立った、背の高い女の子に、腕を捻り上げられていたん。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る