第284話

「ぼくの、こと?」

「そうだ」

 

 思いもかけない言葉に、目を瞬く。

 宏ちゃんは、真剣な顔のままで――とても、冗談を言っているようには見えない。肌が燃えそうなほど、熱い眼差しを注がれて、ぼくはうろうろと視線をさ迷わせた。

 

「う、うそっ……」

「嘘なもんか。お前は俺の奥さんなんだから……俺の恋は、お前だけだよ」

「ひえっ」

 

 蜜のような声が、とんでもなく甘い言葉を囁く。宏ちゃんの全身から、ぶわりと色香が立ち上って、ぼくはのけ反ってしまった。

 

 ――し、心臓が! 口から出ちゃうかと思った……!

 

 手をしっかりと握られていなかったら、ばったりと倒れてしまいそう。

 ぼくは、ショート寸前の思考回路で、「うそ、そんな、でも……」と狼狽しまくっていた。だって、宏ちゃんの恋愛小説が、ぼくのことって。

 

 ――嬉しいよ、嬉しいけど。絶対に、優しい嘘やんね? だって……

 

 六月下旬の、原稿だもん。

 あの頃、ぼくと宏ちゃんは、まだ結婚してなくて……幼馴染やったんやから。

 痛いほどドキドキ弾む胸を押さえ、はふはふと呼吸を整える。すでに負けそうになっている自分に喝を入れて、口を開いた。

 

「だ、だったら、ぼくにも読む権利があると思うんですっ」

 

 主張すると、宏ちゃんが僅かに目を瞠る。

 じーっと灰色がかった瞳を見つめていると、宏ちゃんはウッと呻いた。

 

「どうしても、ダメ?」

「どうしても、ってことはないが……」

「読んでも良い?」

「んー」

 

 宏ちゃんは、天を仰いだ。「参ったなあ」と呟いたのに、不安になる。

 

 ――しつこいって思われちゃったかな……?

 

 自分でもね、しつこいなあって思うんだけど、どうしても引っかかっちゃうんやもん。

 ……そんなに誤魔化したいくらい、好きだったのかな、って。

 そんなの、寂しい。

 すると、繋いでいた手に、力が込められた。

 

「お前に、俺の心の中を読まれちまうのは……流石に、きまりが悪いだろ」

 

 と、漸う宏ちゃんは言った。

 眉根を寄せたその顔は、夕日みたいに赤くなっていたん。

 百井さんにからかわれた時より、ずっと……照れているのが一目でわかる顔色に、ぼくもつられてしまう。

 

「わ……悪口書いた、とか?」

「そーじゃないよ。わかってるだろうが?」

「……うんっ」

 

 ぴん、とおでこを弾かれる。

 怒ったような、つっけんどんな口調と裏腹に、声は溶けそうなほどに甘くって……唇が、ふやけてしまう。


 ――ウソ。宏ちゃんがかわいい……!

 

 きゅん、と胸が痛くなる。

 

「宏ちゃん、大好きやで」

 

 ぼくは、衝動のままに大きな手を、ぎゅうって握りしめる。本当は、抱きつきたかったけれど、テーブルが邪魔やったん。

 大きなペンダコのある指を口元に導くと、ちょんと唇をつつかれた。

 

「俺もだよ、成」

「えへへ」

 

 じんじんと熱を持つ頬を緩ませて、思う。

 

 ――そうやんね……宏ちゃんは、今はぼくと一緒に居てくれるやん。

 

 もやもやしていたものが、ふわーって溶けていくのを感じた。

 ……大丈夫なんだって。

 過去にどれだけ愛した人が居たって……こんな風に、優しい嘘をついてくれるんやもの。


――それなら、読めなくってもいい。


 心のなかで、結論づける。

 ホント言うと、ちょっと名残惜しいけど。ぼくも、宏ちゃんの気持ち大切にしたいもん。


「ありがとう」


 大きな手のひらに、頬を寄せる。

 すると、壊れ物にするように撫でられて――おなかの奥まで、ほんわりと温かくなった。

 





 喫茶室を出ると、原稿展の会場はまだ賑わっているみたいやった。


「宏ちゃん、もうちょっと見てもいい?」


 さっき、最後まで回れていなかったから、気になって。

 そわそわと賑わいを指させば、宏ちゃんは肩を震わせ、笑った。


「ああ、もちろん」

「やったぁ」


 ぼくは、嬉しくなって、逞しい腕に抱きつく。――暖かな木漏れ日のような、光と木々の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


――いいかおり。気持ちいい……


 ぎゅ、と腕に力を込めて、頬を寄せる。


「……ん?」


 すると、宏ちゃんが訝しげな声を上げた。


「成、お前……なにか熱い」

「え……?」


 大きな手のひらが額を覆ったり、首をなぞったりする。

 ぼくは、心配が解消したせいか、ふわふわした気分でされるままになった。


――あったかい。


 なんでか、瞼が落ちてしまいそう。いつしか、腕に凭れきっていると、


「……すまん」


 言うが早いか、宏ちゃんはぼくを抱き上げた。一気に視界が高くなり、びっくりする。


――えっ、何……?!


 周りの人々のどよめきが響く。ぼくは、恥ずかしくなって、腕をぺしぺし叩いた。


「宏ちゃんっ、どうしたの?」

「話はあとだ、帰ろう」

「ええっ」


 原稿展……!

 悲壮さが滲んでたのか、宏ちゃんは声を潜める。誰にも聞こえないくらいに小さく、囁いた。

 

「……香りが、強くなってる。ヒートかもしれない」



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