第282話
ぼく達は、原稿展の開催される軌跡社に向かった。
開催中は駐車場がいっぱいになるので、少し離れた二十四時間パーキングに車を停めて、歩いていく。
「どうしよ。生原稿、緊張してきた……」
どきどきと高鳴る胸を押さえると、宏ちゃんが眉を上げた。
「何でだよー。お前もよく知ってるだろ?」
「知ってるけど、違うのっ」
ヒグラシの声のする道を、散歩がてら行けば、すぐに看板が見えてきた。
「いらっしゃいま、せ……?」
「大人二枚ください」
受付のお姉さんが、宏ちゃんを見てぎょっとした顔にならはる。宏ちゃんは何食わぬ顔で、指を二本たてた。
入り口で入場料を払い、整理券と目録をもらうと、駐車場まで伸びた列の最後に並ぶ。暑さ対策のため、順路沿いに張られたテントの下のお客さんたちの顔は、汗に濡れながらも期待に輝いている。
ぼくもわくわくしながら、宏ちゃんにくっついて目録を開いた。
「楽しみやねえ。どこが気になる?」
「そうだなあ。俺はフグマンボウ先生のとこかな」
「あっ、いいよね! たしか、新しい画集も出るんやんな」
フグマンボウ先生は、幻想的な作風のイラストレーターさんで、全章の表紙を描いてくれてはる人なん。最近は、大人向けの絵本も描いてはってね、ぼくも大好き。
――軌跡社は桜庭先生をはじめ、素敵なクリエイターさんが沢山いらっしゃるもんね。まわり切れるかなあ。
真剣に目録を眺めていると、汗ばんだ頬がさあっと涼しくなる。宏ちゃんが、ハンディファンで風を送ってくれていた。
ぼくは、にこっとする。
「ありがと、宏ちゃん」
「いや」
宏ちゃんはぼくの肩を抱くと、そっと背を屈め、耳打ちした。
「人が多いから、俺から離れない様にな」
優しい声音から、抑制剤をやめているぼくへの心配が、伝わってくる。
――宏ちゃん、優しいな。
ぼくの体調では、本当は人の多い場所は避けるべきなんやと思う。でも、ぼくが楽しみにしていたから、無理を押して連れてきてくれたんよね。
ぼくは、小声で「大丈夫」と囁きかえした。
「香り止め、いやってくらい塗って来たから。宏ちゃんの時計も借りてるし」
真黒いがっしりした腕時計をつけた、手首を示す。宏ちゃんのお気に入り――今朝、「着けとけ」って巻いてくれたの。
アルファの私物を身に着けると、他の雄への牽制になるそうなん。番で仲良くしてると、オメガの危険が減るのはそのおかげなんやねえ。
「ね。仲良しの証」
にっこりすると、宏ちゃんも笑ってくれた。
またページをめくると、桜庭先生の作品目録が出てきた。……生原稿と、それにまつわる制作秘話。百井さんの雑記帳。気になる展示を次々とチエックする。
「……あっ!?」
ある展示を見て、ぼくは目を瞠った。
――さ、桜庭先生の、新作の先読み?! しかも、恋愛もの~!?
そんな原稿、ぼく知らない!
大慌てで、発売予定日を見て……「あっ」と息を飲む。
――六月の、原稿……
六月下旬の、立て込んでいた時期。……あのころは、宏ちゃんのお仕事も手伝えなくて。百井さんが大変苦労して、原稿の清書をして下さったって聞いた。
――『俺は、お前との婚約を破棄する』
ふいに、苦しい記憶が甦ってくる。
陽平とダメになっちゃって、行く当てもなかった。なんで、嫌なことって繰り返すんやろうって、怖くてたまらへんかった――
「成?」
「……!」
宏ちゃんが、ぼくを見つめている。ぼくの異変を、少しも見逃さない……探偵さんの目。
じわじわと、胸の奥が温かくなる。
――宏ちゃんが迎えに来てくれたから……今はほんとうに幸せや。
逞しい腕に、頬をくっつける。宏ちゃんのことだ。ぼくに思い出させたくなくて、言えなかったんやと思う。
だから、このブースは絶対に行こう、とペンで大きく丸を付けた。
宏ちゃんの作品が……宏ちゃんが、大好きやもの。
「わーっ、すごい。桜庭先生の区画、おっきい」
順番が回ってきて、会場内に入ったぼくは目を瞠る。順路で言うと、真ん中あたりにブースがあるようなのに、作品の表紙のポスターが入り口付近からも見えていた。
「宏ちゃん、はやく見に行こう」
「はいはい。はしゃぎすぎたら転ぶぞー」
ふんすと鼻息荒く手を引くと、宏ちゃんは喉を鳴らして笑う。
展示場は、ガラスケースに納められた原稿や、原画が順路を作っていて、こんなに素敵な道は通ったことが無いってくらい。ぼくと宏ちゃんは、人の流れに沿いながら、ゆっくりと鑑賞した。
「わあ。綺麗……」
撮影が禁止なので、みんな食い入るように眺めている。そういう熱気が心地よくて、一日中でも居たくなっちゃう。
「……すごいなあ」
生原稿に残る、作家さんの試行錯誤の跡。作品が売り出されるまでの過程を観て、感嘆の息が漏れる。本当に、宝石を磨くように幾人の手を渡り、丹精された作品が、ぼく達の元に届くんや、って。
あらためて、軌跡社の社員さんやクリエイターさん達の……宏ちゃんの努力の凄さを思い知る。
「うお、凄いめちゃくちゃ。読めねーよ」
「桜庭は天才だから、一発で書いてんのかと思ってた」
隣で、桜庭先生の原稿に見入っている学生さんたちを見て、頬がくすぐったくなる。
桜庭先生は、凄く速筆で知られる作家さんや。でも……さらりと書いているのを見たことがない。少しの空き時間にも、小さなノートに文章を書いて、試行錯誤を繰り返してる。
夜中にふと目が覚めると、寝床のテーブルでそっと書き物をしている背中を見たことも、一度や二度じゃなかった。
『成。悪いんだが、さっきの「無し」にしたとこ、これ足してくれるか?』
そう言って原稿用紙を渡される時の、申し訳なさそうな――でも、納得した顔を見るのが、何より好きだ。
努力家で、ひたむきで、ずっと真剣で。そんな宏ちゃんを、誰より尊敬してる。
「あー……成。そろそろ、次観るか?」
周りのお客さんの賛辞に、照れて居心地の悪そうな宏章先生に、満面の笑みで返す。
「じゃあ、新作の先行公開、行こっ」
「それは駄目だ」
「駄目!?」
ネタバレへの配慮か、少し離れて独立した区画を指さすと、宏ちゃんは笑顔で首を振った。
ぼくは、ぎょっとする。
「な、なんで? 行こうよっ」
て、手を引いても、根の生えたみたいに動かない。
「なんでもだ。まあ、恋愛ものは桜庭っぽくないし。どうでも良く無いか」
「良くなーいっ。日常パートが一番好きなの、知ってるやろっ」
大きな手を振って、(小声で)抗議していると、後ろから声をかけられる。
「せ……野江さん!」
案内役の腕章をつけた百井さんが、朗らかな笑みを浮かべていた。
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