第281話
買い物を終えると、ちょうどお昼過ぎだったので、お蕎麦屋さんに入った。
老舗のお店らしく、柱の色も渋くて格好いい。店内には香ばしい湯気と、お出汁の甘い匂いが漂っていた。ぼくはあったかい天ぷらそば、宏ちゃんは鴨南蛮そばを頼んだ。
「ぼく、おそば久しぶり」
「俺も。年越し以来だよ」
「楽しみやねえ」
そば茶を頂きながら、わくわくしていると……宏ちゃんが目を細めて、こっちを見ていた。ガラスのコップが、宏ちゃんの手の中にあると小さく見える。
「どうしたん?」
「いや。機嫌が直って良かった」
「……っ。怒ってたんじゃないですっ」
恥ずかしさがぶり返して、そば茶に顔がつかりそうなほど俯く。でも、本当に怒っていたわけじゃない。宏ちゃんがぼくの体を大切にしてくれていることは知ってるから。
――ちょっとだけ……そう、大らかなだけなんよ。
宏ちゃんがこれほど情熱的なんやって、夫婦になるまで知らへんかった。彼と経験した、到底口に出来ない語らいの数々を思うと……耳朶までちりちりする。
でも……「おやすみ」って抱きしめられて、穏やかな森の香りに包まれているときも。「成、おいで」って組み敷かれて、甘い責め苦にぐったりしてしまうときも。
両方幸せだった。与えられていると、しんから思う。
――結局、嬉しい自分が恥ずかしいんよね……
そば茶に逃げていると、宏ちゃんが苦笑した。
「成、戻っておいで。コップに吸い込まれそうだ」
「う……」
しぶしぶコップを置くと、宏ちゃんがおかわりを注いでくれた。手に包んだコップから、お茶の冷たさが伝わってくる。
「あ……ありがとう」
宏ちゃんは黙って、頬杖をついて笑っている。そこはかとない余裕を感じて、ぼくは小さく肩を丸める。
――宏ちゃんは、大人やなあ……ぼくばかり大騒ぎしてる。
ぼくだって、初めてのお付き合いじゃないはず、なのですが。陽平とは友達の延長での付き合いで、そんな経験は殆どなかったせいかもしれへん。
――『ガキっぽいし。ないない』
ぞんざいな言葉を思い出し、ピキリとこめかみが引き攣った。「悪かったね」ってやさぐれる気もちと、「そりゃそうだ」って思う気持ちが、半分ずつある。
――はやく、大人にならなくちゃっ。
最終的に、タイプが真逆の蓑崎さんを好きだった陽平は、論外にしても。
年上で、立派にお仕事していて……きっと、恋もあって。人生経験が豊富な宏ちゃんに、少しでも追いつきたい。
ずっと、一緒に居たいから――そこまで思って、ハッとする。
大切なことを、言ってないって気づいて。
「あの、宏ちゃん。お茶だけやなくて、ありがとう。プレゼントも……!」
さっきのお店で、宏ちゃんがプレゼント代も出してくれたん。あっという間に支払いが済んでいて、お礼を言うタイミングさえ逸してしまっていたことに気づき、汗が滲んだ。
「ん? それは当然だろ」
「でも……これはぼくの個人的な用――ふぎゅ」
モゴモゴと口にすると、鼻を摘ままれた。
涙目で見上げると、宏ちゃんは少し怒った顔をしていた。
「こら。水くさいこと言うんじゃない」
「ひろちゃ……」
「お前の家族は、俺にとっても大切に決まってるだろ」
「!」
きっぱりと言われて、鼓動がとくんと跳ねる。目を瞠っていると、温かな手に頬を包まれた。
「俺とお前は家族なんだから。遠慮されたら、寂しいよ」
「宏ちゃん……」
ぼくは、凄くびっくりして……くしゃりと笑った。
宏ちゃんとの生活で、何一つ不自由したことは無かった。自由にしていいカードを渡して貰っていて、節約だって何も言われたことない。
それでも……涼子先生のことは、ぼくの個人的な事情やから。宏ちゃんに、お金を出してもらうのは厚かましい気がしてた。
――そんなぼくの遠慮を、見透かしていたんやね。
ぼくは熱を持った瞼を閉じて、頬を包む手に甘えるよう、そっと顔を傾けた。
「ありがとう、宏ちゃん……」
「うん」
穏やかな応えが、返る。
胸がじんとするほど、有難かった。自分の大切な人たちを、大切に想ってくれる人がいる。そのことが、どれだけ心強くさせてくれることやろう。
――ぼくも、宏ちゃんにとって、そんな人でありたい。
心から、そう思った。
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