第280話
翌日――
「~♪」
ぼくは鼻歌を歌いながら、七分袖のゆったりしたTシャツに頭を通した。
「あれ、ちょっと大きい? パンツもワイドやと、てるてる坊主みたいかなあ」
鏡の前で、念入りにおかしいところを調節する。納得の出来になり、でれっと笑み崩れてしまう。
「うう。気を抜いたら笑っちゃう~」
かっかと熱い頬を押さえた。楽しみで、気合が入り過ぎているかもしれへん。
仕上げに、香り止めをたっぷりと手のひらに出し項に塗ると、スカーフを巻いた。
――何と言っても、デートですから!
今日はね、まずお買い物に行って。それからお昼ご飯を食べて、原稿展っていう予定なん。
「軍資金も持った。今日の星占いは二位やったし……きっと、桜庭先生のサイン本を手に入れますっ」
拳を握り、ふんすと気合を入れていると、「成」と部屋の外から呼ばれる。一足先に出て、車内を涼しくしてくれている宏ちゃんに違いなかった。
「わあ、いけない……はーい、今行きますっ」
ぼくはバッグを肩にかけて、部屋を出た。
火の元と戸締りを道順に確認してから、じりじりする日差しの中に飛び出すと――爽やかな風が、髪をとかすように吹き抜けていく。
風の匂いにかすかな秋の気配を感じた。
――こんなに暑いのに。もうすぐ秋なんやなあ……
濃密な毎日を過ごしていると、時間がゆっくりに感じる。
それでも、たしかに時が経っているんやね。
「なーるー」
「宏ちゃん、お待たせ!」
いつものワゴン車の側で手を振っている宏ちゃんに、ぱたぱたと駆け寄った。
「おお。今日はまた、一段と可愛いなあ」
「えへ。宏ちゃんもかっこいいよ」
子犬みたいに頬を包まれて、くすぐったくて笑っちゃう。
宏ちゃんは、Tシャツとパンツの上にシャツを羽織っただけのシンプルな出で立ち。でも、セレブのオフショットみたいにゴージャスだった。
――このところ、原稿原稿、お店! でシャツとチノパン、エプロン! て感じやったもんね。すっごく新鮮……
見惚れていると、ちゅっと唇に軽いキスが降ってきた。
「ひゃっ」
は、白昼堂々……!
かあ、と頬が一気に燃え上がった。宏ちゃんは悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「可愛い顔してるから、つい」
「もう! ご近所さんに見られても、知らんよっ」
ぷい、とそっぽを向くと、頭を撫でられた。
「ごめん、ごめん」
「……う」
優しい眼差しに、怒っていた肩が落ちてしまう。
いつでも好意を伝えようとしてくれる、宏ちゃんの大胆さが嬉しくもあって、怒れない。
――恥ずかしかっただけで、やじゃないもの。それに……
自信がなくて、よくウダウダしてしまうぼくは……宏ちゃんのそういうところに、救われてるから。
ぼくは、にっこり笑った。
「何でもない。行こっ」
「ああ」
ぼく達は笑って、車に乗り込んだ。
カーステレオから、ぼくの好きな歌が流れていて、嬉しくなる。
「じゃあ、安全運転で」
「はい、お願いしますっ」
甘い歌声が、久しぶりのデートで弾む気持ちに沿うように響いた。
二時間後、ぼくはオーガニックの化粧品を取り扱うお店のカウンターに座っていた。
涼子先生に、昇格のお祝いを買いに来たん。
「わあ、良い香り!」
試供品の入ったボトルを持って、ぼくはうっとりと目を細めた。店員さんが自信のある声音で、説明してくれる。
「こちらは天然の精油をブレンドしているんです。柑橘の香りが甘すぎなくて、爽やかで良いってご好評頂いているんですよ」
「ほんとですね。うーん、さっきのフローラルも素敵やったけど……涼子先生は、こっちが好きかもっ」
涼子先生の溌溂とした笑顔を思い浮かべ、ぼくは心に決めた。
「このバスソルト、買いますっ。こっちのオイルと一緒に、ギフト用に包んで貰えますか?」
「ありがとうございます」
店員さんは床を滑るような足取りで、品物を包みに店の奥へと向かっていかはった。
「ふぅ……」
ぼくは甘い香りの余韻に浸りつつ、バッグからお財布を探した。
すると、ぽんと大きな手が肩に乗った。――ふわりと温かで、深みのある香りがして、振り返る前から誰かわかる。
「宏ちゃんっ」
「よ。良いの見つかったみたいだな」
にっこり笑う宏ちゃんの手には、細長い箱が数個握られていた。ぼくがゆっくりプレゼントを見れるよう、お店の中で別行動してくれてたんよ。
ぼくはスツールから立ち上がり、店員さんに貰った商品説明の紙を掲げた。
「うん。あのね、このバスソルトとオイルにしたん。涼子先生、リラックスできるグッズとか好きやから」
「へえ、いいじゃないか。色々終わったら、ゆっくりして欲しいよな」
「そうなんよ! あ……でも、ちょっとだけ不安で」
ぽろりと零すと、宏ちゃんは首を傾げた。
「何がだ?」
「ユウちゃんとタクちゃんがいるやん? 子どもさんも一緒に食べれる、お菓子とかも良かったかな……って」
いつも二人のお子さんのことを、一番に考えてはる先生やから。そういう物の方が嬉しかったかな、という気もするんよ。むむと眉を寄せていると、宏ちゃんがあっけらかんと言う。
「いいんじゃないか? 立花先生へのお祝いなんだから」
「そ、そう?」
「ああ。お子さんのは先生が買うだろ」
背中をぽんと叩かれる。温かな感触に、ぽっと胸に安堵の灯が点った。
「そっかあ……良かった!」
満開の笑顔を向けると、優しい眼差しが見守ってくれていた。頼もしい宏ちゃんの腕に、そっと手を添える。
「宏ちゃん、待っててくれてありがとうね。なにか気に入ったのあった?」
宏ちゃんはにっこり笑って、手を返して見せてくれた。
「うん。そろそろ足りなくなってきたからな」
「そうなん……って、これっ」
見覚えのあるパッケージに、頬がぱっと赤らむ。
――これ、したあと……宏ちゃんが塗ってくれるやつ……?!
宏ちゃんと深い仲になってからと言うもの、お風呂に一緒に入ることが増えたん。あの行為をしたあと、クタクタで動けなくなっちゃうから、宏ちゃんが嬉々としてお世話してくれるんよ。
で、これはその……胸とかお尻とか、敏感になったところに塗ると、後でヒリヒリしないからって。
『やあ、宏ちゃん……ぼく、自分で』
『いいから、任せとけ。俺の楽しみなんだから』
『恥ずかしいんやってば~!』
いつもの顛末を思い出し、口をパクパクさせていると、宏ちゃんはニッと笑う。
「いっぱい使うから、楽しみにしとけよ」
「……もう、ばか!」
平手でばちん! と広い背中を叩いても、宏ちゃんはちっともこたえず、笑っている。
――どうりで、このお店の香り。初めての気がせえへんはずやわ。
店員さんが戻ってくるまで、ぼくの頬から熱が引くことは無かった。
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