第278話

「……よしっ、できた!」

 

 原稿用紙の最後の一文字を打ち込んで、ぼくは小さく歓声を上げた。

 

「えっ。もう出来たのか?」

 

 ローテーブルで、並んで書き物をしていた宏ちゃんが、驚いたように振り返る。その反応に、ちょっと得意になりながら、頷く。

 

「かなり量があっただろ?」 

「えへ。面白いなあって読んでるうちに、終わっちゃいました」

 

 むしろ、山みたいに原稿用紙が積まれるほど、テンション上がっちゃいます。

 宏ちゃんの小説を清書するのは、いちばん好きなお手伝いやもん。一番最初の読者になれるなんて、夢みたいやし。

 

 ――何より、宏ちゃんの大切なお仕事に関われるのが、嬉しくて。

 

 そう言うと、宏ちゃんは照れくさそうに笑った。大きな手で、わしわしと頭を撫でられる。

 

「嬉しいこと言ってくれるよなあ」

「本当のことやもん」

 

 ぼくは、ぽんとぶつかるように、宏ちゃんの肩に寄りかかった。――ふわりと芳しい香りが立ち上って、うっとりと頬がほころぶ。

 

 ――あったかい、ここちいい……。

 

 お湯に浸かっているみたいに、体の芯から安心してしまう。Tシャツの肩に頬をくっつけていると……宏ちゃんがそっと髪を梳いてくれた。

 

「成。眠いんだろ?」

「ううん」

 

 首を振ったら、宏ちゃんが喉の奥で笑った。もう、瞼が閉じそうなのがバレていたみたい。

 すると、額に大きな手が被さった。

 

「無理するな。――また、熱っぽくなってきてるぞ」

 

 このところ、ふとした拍子に熱っぽくなる体を、宏ちゃんは心配してくれていた。

 と言っても、風邪みたいに喉が痛いとか、お腹が気持ち悪いとかはちっともないんよ。むしろ、

 

「大丈夫。体が熱いとね、ふわふわしてすっごい調子いいんよ」

 

 ぼくは、ぐっと力こぶを作って見せる。

 良くわからへんけど、熱っぽい方が体がシャキシャキしてるって言うか。なんだか無性に、家じゅうピカピカにしたい欲求が湧いてきてね。お掃除もお洗濯も、すっごいしたいの。

 

 ――そのかわり、ホッとすると猛烈に眠くなっちゃうんやけど……

 

 宏ちゃんの側に居ると安心しちゃうから、すぐに眠気が来ちゃう。さっきみたいに、集中してると平気なんやけどね。

 欠伸をかみころしてたら、宏ちゃんは眉を八の字にした。

 

「ほんとうに有難いけど、頑張り過ぎだよ。普段から綺麗にしてくれてるのに」

「宏ちゃんもしてくれてるし、大丈夫……それに、してると落ち着くん」

「そうかあ……?」

 

 心配そうな夫に、ほほ笑む。薄いおなかに手を当てて、目を閉じた。

 

「本当なんよ。お家をピカピカにすると、お腹のなかで何かが「ぱちん」って整ってく感じがするん」

 

 何かに追い詰められているって言うよりは、子どもの頃の遠足みたいな気持ちに近い。リュックに荷物を詰めていくみたいに、ぼくの体に何かが――準備されているような、気がする。

 すると、ぼくの手の上に宏ちゃんの手が重なった。

 

「宏ちゃん?」

「……楽しみだな」

 

 そう呟いた宏ちゃんは、とても優しい目をしていた。

 

「うんっ」

 

 ぼくはにっこりと笑い返す。

 実は……宏ちゃんは大人で人生経験豊富やから、ぼくの”状態”にあたりがついているのかなって思ってる。

 だって、心配性の宏ちゃんが狼狽えつつも、じっと見守ってくれているから。いつもなら、ぼくの体調がおかしいと許してくれないのに。

 

 ――やから、不安じゃないんよね。

 

 ぎゅっと広い肩に抱きつくと、芳しい木々の香りが鼻腔を抜ける。――最近、ますます深く香るようになった、宏ちゃんのフェロモン。

 

「……ふあ」

 

 堪えきれず、つい欠伸が出た。

 すると、くすりと笑った宏ちゃんに、抱き上げられてしまう。


「わっ」

「ちょっと休みな。あんまり眠そうだ」


 書斎を出て、廊下をずんずん進んでいく。 

 あっという間に、寝室のベッドに下ろされて、お布団をかけられてしまった。

 

「けど、宏章先生は……」

「俺も、もうちょっと書いたら休むよ」

 

 宏ちゃんは囁いて、幼い子どもにするようにお布団を叩いた。

 こうしてブレーキをかけてくれることも、すごく甘やかされてるなぁって思う。 

 

 ――でも、ホント言うと、すごく嬉しい……

 

 お砂糖みたいに甘い優しさに浸って――ぼくは、すぐに眠りこんだ。 

 

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