第277話【SIDE:晶】
妹を振り切った、と思えたところで俺は足を止めた。
「はぁ、はぁ……」
無理に走ったせいで、息が苦しい。体を休めようにも、人通りの多い場所では気が休まらず、仕方なく近くのコンビニに入った。
いらっしゃいませ、と機械音声に出迎えられる。冷房の風に、汗に濡れたシャツが冷やされ、身震いした。
「……最悪」
パンの並んだ棚に凭れ、俺は息を吐いた。
――玻璃のやつ、ずっと追い回しやがって……
冷淡な妹の顔を思い出し、舌打ちする。
昔から、あいつはそうなんだ。
心配していると言うのは口だけで、「面倒だ」とあからさまに態度に出してくる。そのくせ、俺をペットか何かのように管理したがるんだ。……オメガの兄を見下していることを、かけらも隠しもしないでさ。
大学に進学するため、家を出たときだって――
『兄様。くれぐれも、羽目を外さずに行動を慎んでくださいね』
玻璃は見送るふりをして、棘のある言葉を投げつけてきた。やれ飲み会には行くな、一人でふらふら出歩くな、と年下のくせに俺を監督するかのように。
『うるさい。俺にも、勉強する権利があるんだよ』
オメガだからって、行動を制限される言われはない。そう主張すると、玻璃は呆れ顔で肩を竦めた。
『権利って、そんな大げさな話ですか? ……少しは真面目に体質に向き合ってください。貴方に何かあったら、椹木さんにも申し訳がないんですから』
『……ッ』
心無い言葉を思い出し、唇を噛み締める。俺を……オメガをアルファの所有物としてしか見ない、独善的な妹。自分が正しいと信じて疑わないあいつは、簡単に人の心を踏みにじる。
「クソッ……ただ、アルファに生まれただけのくせに」
そもそも玻璃が生れたせいで、俺は全てを失ったのに。当の本人は奪った自覚もなく、俺を責め立ててくるのだから、あまりにもやりきれないじゃないか。
――俺だって、好きでオメガなんじゃない。好きで、こんな体なんじゃない……!
オメガに生まれなければ。せめて――抑制剤の効かない体にさえ、ならなければ……こんなことにはならなかったんだ!
ずるずる……と陳列棚のポールを背で滑り落ちる。
「……っ」
両手でわが身を抱き、苦しみに耐える。ズキズキと胸が痛んで、息を忙しく吐かなければ、泣き出してしまいそうだった。
「もう嫌だ……」
無人のコンビニは静かで、BGMさえ流れていなかった。そのせいで、頭の中でしつこくリフレインする声が、はっきりと聞こえてしまう。
――『椹木は、お前を気にかけているんだ』
俺の知らなかった事実を告げる、陽平の声。確信に満ちていて、嘘をついていないとハッキリとわかる声だった。猜疑心の強い俺でも、それとわかるほど……
俺は頭を抱えて、「うう」と呻く。
――どうして、今さら……知りたくなかった!
椹木さんが、俺を想ってくれていたなんて思いもしなかった。
だって、そうじゃないか。
発情期以外は放ったらかしで、家に帰っても来ない。連絡もくれない。自由にさせていると言えば聞こえはいいけれど、二人でいる義務のない同居は放置と同じだった。
――ヒートの時も、終わったらすぐに帰る。俺自身を求めてくれたことなんて、一度も無かっただろ……?
ずっと、俺なんかにはなんの興味も無いのだろうと思っていた。厄介な婚約者を押し付けられたと、疎まれているに違いない、と。
だから、絶対に頼れないって……必死に、背を向けてきたのに!
『晶君。どうか、私を頼ってください』
誠実な声音が何度もそう言ってくれたのを……どうせ義務で言っているだけだと……
――本当の言葉だったんだ。
そう思うと、体から力が抜けていく。
「……ううっ」
ずっ、と鼻を啜る。こみ上げてくる涙を堪えて、歯を食いしばった。
――陽平の、馬鹿野郎……今さら知ったって、もう遅いんだよ!
心の中で、とことん暢気な弟分に悪態を吐く。
だって――もう、バレてしまったんだから。
あの人以外と関係を持ったこと。最中の音声まで流されて、終わった。あんなの聞いたら……いくら気にかけてくれていても、愛想が尽きるに決まってる。
「……うっ、うう……」
きつく目を閉じると、涙が頬を伝う。
セックス、したかったことなんてない。けど、きっと淫乱なオメガだって、見下げたはずだ。
――いくら治療だって言っても……信じて貰えなきゃ意味ない。
……ただ、椹木さんに迷惑って思われたくなかった。ただでさえ、アルファに抱かれるのなんて嫌なのに、迷惑がられるなんて耐えられなかったんだ。
まさか、想ってくれていたなんて知らなかったから。
「でも……もう、遅い……」
きっと、あの人は俺を軽蔑した。流石に婚約破棄して、センターへ行かせるか……外聞を気にするなら、他の誰かに押っ付けるかするだろう。
――なんでだよ。なんで……俺ばっかり、こんなことになるんだ?
冷たい床に座り込んでいると、入り口が開く音がした。
――『晶君』
呼ばれた気がして、弾かれたように顔を上げる。けれど――見も知らない客だった。
「……はは」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
何を期待しているんだろう、と甘えた自分を殴りたくなる。
――あの人が、俺を探しに来るはずない。
もう二度と……そう思うと、体からぐったりと力が抜ける気がした。
膝に顔を埋めていると、靴音が近づいて来る。
「……君。体調でも悪いのかな?」
男の声が降ってくる。気づけば、さっき入って来た客が近づいて来て、俺を見下ろしている。真面目なサラリーマン風だけど、その目と声に情欲があるのに気づき――下腹が勝手に潤む。
忌々しい感覚に、唇が歪んだけれど。
「……平気です」
すっくと立ち上がると、スーツの腕を取った。
「でも、行くところが無くて」
そう言ってやれば、男は興奮に息を荒くし、俺を飲みに誘った。――犬見てえ、と鼻で笑いながら、大人しく肩を抱かれる。
――もう、どうでもいい……どうせ、汚れてるんだから。
これ以上、どうにもならないなら……もう足掻く意味なんてない。
俺は頬を歪めて、男に身をしなだれた。
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