第276話【SIDE:玻璃】
兄は、男とホテルを転々としている。
流石に、行きずりの相手の家に上がり込んだことはない。……それをマシだと思わなきゃいけない状況、本当にどうかと思うんだけど。
そういうわけで――兄のいるホテルの前で宍倉さんと二人、出待ちをしているところなんだ。
「なかなか来ませんねえ。とっくに終わってるはずなのに」
「ええ。……若様、どうか私から離れませんよう」
宍倉さんは、中学生の私がホテル街をうろつくことを心配して、ついて来てくれた。この界隈に足を踏み入れてからというもの、しきりに周囲の視線から庇おうとしてくれている。
私は、過保護な彼に苦笑した。
「宍倉さん、そんなに心配しなくても平気ですよ? 今日は制服着てないし、補導される心配も無いでしょうからね」
私は高い背のためか、きつい顔立ちのせいなのか、歳ほど幼く見られたことは無い。私服だと、大学生に間違われることもある。
――女にさえ見られないことの方が多いものな。
すると、宍倉さんは渋い顔で言った。
「そういう問題ではありません。ここは若様のような年頃の方が、うろついていい場所じゃないのです」
「はあ……」
厳しい声音にぽかんとしていると、彼は我に返ったように「すみません」と頭を下げた。
「出過ぎたことを申しました。若様ならば、とっくにご承知のことを……」
「いえ。気にしないで下さい」
恐縮する宍倉さんに、私は爽やかな気持ちで笑って見せる。
――宍倉さんは、いいお父さんになりそうだよね。
うちの親父と大違い。
和やかに笑いあっていると、人の話し声が聞こえてきた。ラブホテルから、人が出てくる。
「……あ!」
肩を抱こうとする男の腕を払い、早足に外へ出てくる若い男。――まぎれもなく、うちの兄だった。
「なあ、連絡先くらい教えてくれてもいだろ!」
「一回切りの、約束だったはずですけど……」
大学生くらいの、いかにも体育会に入っていそうなごつい男が、逃げようとする兄に必死に追いすがっている。兄は困り顔で退けているものの、体に芯が無いようにふらふらしていて、まったく抵抗できていなかった。
――あー、さっそくピンチですってか!
とは言え、逃げ足の速い兄を足止めしてくれるなら、それに越したことは無い。
私は、二人の前に躍り出た。
「兄様」
「……!」
兄は驚愕に目を見開き、さっと顔を青褪めさせた。逃げたそうに後じさったけれど、ごつい腕に肩を抱かれていて、かなわない。
「そこの貴方、その人は私と帰るんです。どうぞお引き取りを」
私が昂然と言い放つと、男は唇をニヤリと歪めた。
「なんだよ、てめえ。後から出て来て、しゃしゃってんじゃ……」
三下同然の台詞を吐こうとした彼を、きつく睨みつけた。
――とっとと失せろ、三下。
目力を込め念じると――頭の奥で熱が滾り、唇に固いものが食い込む感触がした。苛立ちと暴力的な衝動が、目から火のように迸るみたいだった。
「ひいいっ」
男は泡でも吹きそうな顔で、どたばたと縺れるように逃げて行く。
「ふう、これで良し」
私は肩の力を抜き、乾いた息を吐いた。
威圧のコントロールは、苦手だ。みっともなく牙の出た口を押さえつつ、離れたところに立つ宍倉さんに目配せをする。それだけで優秀な彼は意を察してくれ、「かしこまりました」との会釈が返る。――これで、あの男は今夜には丸裸だ。
「ゲホッ、ゴホッ……玻璃、お前ッ……」
気がつけば、兄が体を折って咳き込んでいた。
どうやら、威圧に当てられたらしい。恨めし気に睨まれたが、私はこれ幸いと、兄の腕を掴む。
「さあ、鬼ごっこはおしまいです。帰りますよ」
「……っ、いやだ」
手を引いて歩き出そうとすれば、兄は子どもがぐずるように、その場に踏ん張った。
苛ついて、腕をグイと引く。
「大人のくせに、我儘を言わないで下さい。だいたい、こんなことばっかして、椹木さんに申し訳ないとか思わないんですか?」
逃げ回るために、他の男と関係を持つなんて――そう詰ると、兄は羞恥からか顔を赤らめた。
「……っ、うるさいな。お前に関係ないだろ!」
「あるに決まってるでしょう? これでも兄妹なんですから、放っておきはしません」
いくら面倒でもな。
と言外の言葉を察したのか、兄は思いきり腕を払った。
「ちょっと!」
「……お前は、いいよ」
兄は俯いたまま、言う。
「気楽な子供で。オメガであるせいで、捨てられるって怯えなくて済んで。アルファってだけで、人生うまく行くもんな。父さんにも愛されて、目をかけられて……っ」
――は?
目を見開いた私に、兄は暗い声で叫んだ。
「でも、そんなんなら、放っておけよ。俺のことなんか放って、気楽に好きにやってろよ!」
そう言い捨てて、兄は踵を返し、走り去っていく。
でも、フラフラ走っているせいで、足取りは重い。すぐに走り出せば、余裕で捕まえられる――
「……」
けど、足が重くて動けなかった。
理性では、追いかけるべきって思ってんだけど。何ていうか……追いついたら、兄と喋んなきゃなんないのが、めちゃくちゃ億劫でさ。
宍倉さんは、窺うように私を呼んだ。
「若様」
「……ごめん、宍倉さん。逃がしちゃいました」
兄の姿は、完全に人ごみに紛れて見えなかった。宍倉さんは、気づかわし気な目をしたけれど、私が黙っているので察してくれたのか、「車に戻りましょう」とだけ言った。
車に戻り、後部座席にだらける。
反芻するのは、さっきの兄の言葉だった。
――なにが、愛されていいな、だ。鏡に向かって言ってろよ。
どろどろとした感情が、胸の中を蠢く。
あの兄は……父が、どんな態度で自分に。私に接しているか。本当の本当に、わからないのだろうか。
「マジで、いい加減にしろよ……」
苛々と爪を噛み締めると、ぱきりと音がして痛みが走った。
「……あぁ、もう」
ピンクの部分にまで罅が入り、血が滲んでいた。忌々しい気持ちで口に含むと、「若様」と控えめな声がかかる。
私は、ハッと顔を上げた。
「はい」
「若様、今日はもうお休みしましょう」
「……え? でも、予定が。兄を探さないといけないし。それに、課題も遅れてるし」
「いいえ。若様の予定は、もうありません」
呆然としていると、宍倉さんは優しい声で続ける。
「ですから――私で良ければ、なんでも仰ってください。宍倉は、若様の力になりとうございます」
「……!」
仏のような言葉に、胸が詰まる。
心底、有難かった。こうして親切にしてくれる人がいるから――身内がどんなにクソでも、自分を嫌いにならなくて済む。
私は、がばりと起き上がり、運転席に乗り出した。
「ありがとう、宍倉さん。じゃあ……もう少し、ドライブしてもらっていいですか?」
「はい、喜んで」
「それから……原稿展に行きたいです」
おずおずと申し出ると……ミラー越しに宍倉さんの目が、やわらかく笑んだ。
――ありがとう、宍倉さん。
私は助手席のヘッドレストに腕を回して、にっこりと笑い返した。
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