第275話【SIDE:玻璃】

 濁った雲が、小さな窓の中を高速で移動している。


 ――憂鬱かよ……


 眠くなる光景に、手に持っていたタブレットを腹に伏せて、長いため息をついた。

 

「あの、若様。大丈夫でしょうか?」

 

 運転席から、宍倉さんが遠慮がちに声を上げた。私は、後部座席に行儀悪く寝転びながら、片手をひらひら振ってみせる。

 

「だいじょうぶでーす……すみません、こんな格好で」

「何をおっしゃいますか。若様はずっと任務に追われてらして、お疲れなんですから。車中くらい好きになさって下さい」

「し、宍倉さーん!」

 

 ああ、優しさが染みる。

 ここ数日の苦闘が思い返されて、目が潤む。メンタルは弱くないタイプと自負しているけれど、流石に滅入っていたようだ。

 なにせ、あの惨憺たる三家話し合いのあと――私の楽しい夏休みは、塵芥と化したものだから。

 

 





 

 

 事の起こりは、兄さまが椹木さんの面会を拒んだことだった。

 椹木さんという人は、あの兄にぞっこんの父が許した婚約者だけあって、オメガに優しい人格者と評判の方。だからなのか、あんなとんでもない真似をしでかした兄であっても、即座に離縁はなさらなかった。

 

 ――『私に、夫として至らないところがありましたから。晶さんの気持ちを聞きたいんです』

 

 と、仏のような仰りようで。

 少なくない賠償、慰謝料などを算段しないといけないか……そして、それを厚顔にも渋るだろう父を説得するのに、どれだけ骨が折れるか考えていた身としては、地獄に仏だったんだ。

 なのに、あの兄ときたら……!

 

『嫌だ! 絶対に会わない』 

『……はあ?! ちょっと兄さま、正気ですか!? わざわざご足労下さったのに、失礼でしょうが!』

 

 わざわざ、激務の隙間を縫って、蓑崎家に話し合いにいらした椹木さんを、大した理由もなく拒んだわけ。

 

 ――アホかこいつは!?

 

 昔の漫画よろしく、目玉がポーン! と飛び出すかと思いましたよね。

 だって、兄が話し合って、ことをうまく治めれば問題は解決するのに。賠償も、慰謝料もいらないし、社交界の評判もなんとか抑えられるのに、何を考えているのか。

 

『会ってくださいってば!』

『やぁ、離せ……!』

 

 出て行こうとする兄を引き留め、怒鳴り散らしていたら、騒ぎを聞きつけた父に杖でぶん殴られた。

 父に引き立てられる最中、いそいそと兄が出て行くのを見て、余計に悔しかったよね。

 しかも、それで父が何と言ったかというと。

 

『晶に無理強いするな! 貴彦君には出直すようにと言っておいた』

『……はい!? 何故そんなことを!』

『あいつが晶を守らないからだ。晶が面会を許すまで、何度も足を運ぶくらいして当然だ』

 

 唖然、呆然ってのはこのことですよ。

 そんなん当然なわけないし、普通にこっちが謝るやつじゃん。私が何度も、そう言ってんのに、父は兄を優先しろって言う。

 兄はそれに甘えて、椹木さんから逃げ続けてる。

 

 ――申し訳ないって感情、どこに落っことしてきちゃったのさ。

 

 呆れるでしょ。

 このアホ共のせいで、私の夏休みは消えちゃったんだよ。

 って言うのも――父は、兄が帰ってこないのは心配なのか、私に任務を言いつけたんだよね。

 

『街に出て晶を連れ戻せ。晶の不利にならんよう、口止めも忘れるな。夏期講習は断りの電話を入れろ。旅行? 兄が大変なのに遊ぶつもりなら、お前なぞ勘当だ』

 

 ハゲ! って怒鳴らんかったの、我ながら偉いよな。

 それで、私の夏休みは、兄を探し、浮気の証拠を揉み消し……と陰気に消化されている。

 今日だって、兄の居るホテルに向かっているところだ。あの野郎は美貌を生かして、転々と居場所を変えるから……捕まえるのも、もみ消しも骨なのに。

 

 ――おかげで、原稿展にも行けてない。苦労してアリバイ作りもしたのに、全部水の泡じゃんか……!

 

 シートに転がって、爪をがりがり噛んでいると、「若様」と心配そうな声がかかる。

 私はハッとして、口の中の爪をごくりと飲みこんだ。

 

「ごめんなさい。つい苛々して……」

「いいえ! ただ、心配で。以前のように、傷が化膿してはと……後で、手当てをさせて下さい」

「ありがとう。でも大丈夫です!」

 

 慌てて頭を振る。

 爪を噛む癖は、みっともないから止めたのに、うっかりしていた。

 

「別に怪我もしていませんから。それより、兄が出て来ちゃうかもです」

 

 カメラで覗き見た映像では、そろそろ”宴”も終わりに近い。

 まだ心配そうな宍倉さんに笑って見せ、話を逸らした。――頭も察しも良い人なので、逸らしたことに気づいて、宍倉さんは頷いてくれる。

 

「……では、急ぎます」

「お願いします」

 

 車の速度が増し、ホッと息を吐く。

 

 ――いけない、いけない。私だけじゃないのに。

 

 宍倉さんだって、ずっとこの珍道中に付き合わされ、休みがないんだから。

 ブラック勤めも良いとこなのに、私を手伝ってくれてるのだから……甘えたことを言っていてはいけない――


 

 

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