第272話

 センターに行ってから、三日――和やかに日々が過ぎていく。

 

「ああっ」


 ある日の昼下がり。 

 TVでニュースを見ていたぼくは、座ったままぴょんと浮き上がった。

 

「ど、どうした!」

 

 驚き顔の宏ちゃんが、ペンを取り落とす。

 ぼくは、興奮気味に腕を引っぱって、TVの前に連れていった。

 

「宏ちゃん、見てっ。原稿展のニュースやってるで!」

 

 液晶画面に映っているのは、間違いなく軌跡社で。番組のリポーターさんが、にこやかに盛況ぶりをお茶の間にお伝えしてる。

 何度かお邪魔したことのある建物に、たくさんの人が押し寄せている光景は、圧巻だ。

 

「宏ちゃん、すごいお客さんやねえ。あちこちの県……外国からいらっしゃった人もいるって!」

「ほお。そういや、百井さんが、SNSの反響もでかかったって言ってたなぁ」

 

 感心したように、宏ちゃんは顎を撫でる。

 ――軌跡社の原稿展は、毎度すっごく盛況なんやけどね。今期は、所属クリエイターさんの動きが、いちだんと大きかったからかも(もちろん、宏ちゃんも!)。


――すごいなあ。こんなに沢山の人が、大ファンなんよね……!


 ぼくは、桜庭宏樹のサイン本を手に入れた、と笑顔でインタビューに答えるお客さんを見て、ほうと息を吐いた。

 

「いいなあ。ぼくも、桜庭先生のサイン本欲しい」

「えっ。成になら、いつでも書くぞ?」

 

 宏ちゃんは、テーブルを指し示す。そこには、百井さんが届けてくれはった桜庭先生の新刊が、どんと積まれてる。


――『桜庭先生の本が、会場でどんどん出てるんです! せっかくですから、じゃんじゃんサインしてお客様にもっと喜んで貰いましょう!』


 と言うことでね。宏ちゃんは、追加のサインをせっせと書いてるところなん。

 ぼくは、ごくりと唾を飲み――ぶんぶんと頭を振る。

 

「ダメっ。そんなズルは、ファンとしていけません」

 

 いくら妻と言えども、ファンとして超えてはいけない一線がありますので。

 メッと指を立てると、宏ちゃんはふき出した。

 

「本当に真面目だなぁ、成は」

「わあっ」

 

 突然、ぬいぐるみみたいに抱きしめられて、目を白黒する。活き活きとした緑の匂いが鼻をくすぐった。――ピクニックに行ったような、わくわくする香り。

 ぼくも笑って、胸の前にまわされたがっしりした腕につかまった。


「えへ。桜庭先生が、大好きなだけですよっ」

「くっ……桜庭に妬きそうだ」

「何言うてるん。宏ちゃんのヤキモチ焼き」


 桜庭先生は、宏ちゃん自身やん。

 くすくす笑っていたら、宏ちゃんが甘い声で囁く。


「お前が大好きなだけ」

「も、もう……」

 

 後ろを振り向くと、頬にやわらかく唇が落ちる。……そして、優しいキスに、ほころんだ口にも。


「……なあ。真面目で可愛い奥さんに、サイン本をプレゼントするにはどうしたらいいかな?」

 

 悪戯っぽい声が、問いかける。

 ぼくはくすぐったい気持ちで、宏ちゃんを見つめると、お願いを口にした。

 

「じゃあ……原稿展に行きたいですっ」

 

 体調が良くなるまでは、とお預けになっていた原稿展。顔の痣もすっかり消えたし、宏ちゃんと一緒に見に行きたい。

 宏ちゃんは、にっこりして頷く。

 

「わかった。今度の休みに行こうか」

「やった! ありがとう、宏ちゃん」


 バンザイすると、宏ちゃんは頭を撫でてくれた。


 


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