第264話

 涼子先生は、嬉しそうに大きな口で笑った。

 

「良かったなあ、何ともなかったんやね。お顔も、可愛く戻って来たやないの」

 

 ふくふくした両手に頬を包まれる。こういう風にされると、子どもの頃に戻ったみたいで、くすぐったいなあ。

 

「えへへ。ご心配おかけしました」

「ほんまやで!」

 

 にっこりと笑い合っていると、涼子先生の笑顔がどこかやつれてるのに気づく。

 心配になって、尋ねた。

 

「先生、大丈夫? 疲れてはる?」

「あ、わかる? 実はねえ、例の赤ちゃんのことで忙しくてなあ……」

 

 先生は、ふうと重いため息をついた。

 

「責任のある仕事やからね、手がかかるんは承知の上なんよ。もう、毎日残業続きで……」

「うん、うん」

「けど、家のことは待ってくれへんし。子供も寂しがるし。せめて、旦那がしっかりしてくれたらええんやけど、ぼーっとしてるから」

「そっかあ……先生、大変やねえ」

「そうなんよ。もうね――」

 

 堰を切ったように、溢れ出した先生の気持ちに、心を傾ける。――涼子先生は責任感の強い人やから、お仕事もお家のことも目いっぱい頑張って、疲れてはるようやった。

 特に、子どもさんと一緒におられへんのが、辛いんやって。先生の子どもさん達は上の子が九歳、下の子が三歳。まだ甘えたい盛りで……お母さんが恋しくて、寂しがってるそうなんよ。

 

「うちも、もっと一緒に居てあげたいねんけど……」

「先生、ユウちゃんとタクちゃんのこと、大好きやもんね」


 ぼくは励ますように、ぎゅっと手を握った。先生は、声を詰まらせる。


「そうやねん。でも、「よその赤ちゃんの方が大事なんや」って怒るん。そんなん、自分の子が一番に決まってるのに……」


 先生の言葉に、ぼくは相槌を打つしか出来ひん。


――ごめんなさい。


 ただ、何か申し訳なくて――そう思うことが、先生にも子どもさんにも……赤ちゃんにも悪い気がして。ただ、先生の手を握って、ほほ笑んだ。


「先生、だいじょうぶ。きっと、伝わってるよ」

「成ちゃん、おおきにね。ごめんねえ、こんな話してしもて」

「何言うてんの! もっと話して。聞くくらいしか出来ひんけどっ」


 小さく鼻を啜る先生の肩をさすって、ことさら明るく話した。

 ただ、元気を出して欲しい……それだけ伝わるよう、願って。 




 

 ごはんを食べに行く涼子先生を見送って、ぼくはふらふらと歩いていた。

 

――『ありがとうね、成ちゃん。元気出たわ!』


 先生は、そう言って笑ってくれた。ホッとしながら……それから、「大丈夫かな」と心配になる。

 


――ぼく、何もおかしくなかったかな。


 頬に手を触れると、ざらざらした湿布の感触がした。もう痛くないから……顔が強張っている気がするのは、きっと気のせいやんね。

 

「……!」


 ふいに、ポケットに入れていたスマホが震える。「宏ちゃん」と表示されていて、ハッとした。

 ふらふら歩いて、ロビーからすっかり離れてしまってる……!


「もしもし、宏ちゃんっ?」

『お待たせ、成。どこに居る?』


 図書室の近くだと伝えると、ホッと息を吐いた気配が伝わって来た。

 

『じゃあ、そこに居てくれるか。行き違いになってもあれだし、迎えに行く』

「ごめんね……勝手にふらふらしてて」

『はは。いいんだよ』


 低い、穏やかな声が耳から、胸に浸透する。

 ぼくは通話を切ってからも、しばらくスマホを握りしめていた。


「宏ちゃん……」


 今すぐ会いたくて、足が迎えに行きそうになるのを堪える。図書室に来る順路は二方向あるから、宏ちゃんの言う通り行き違いになったら悲しいし。

 そわそわと、図書室に近寄った。ガラス張りの壁から、なんとなしに図書室を覗いていると……ガラリとスライド式のドアが開く。

 そちらを見たのと、腕を強く掴まれたのは、同時やった。


「……あ!」


 動転し、振り解こうとして……ぼくは、息を飲む。


「成己……!」

「陽平!?」


 栗色の長い前髪の下、紅茶色の目が揺れていた。



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