第261話【SIDE:陽平】

「母さん、お待たせ」

 

 数十分後――湯気の立つ鍋を携えて戻った俺を、母さんは目を丸くして出迎えた。

 

「どうしたの、それ……」

「たまご粥、作ってみたんだ。俺、風邪ひいててもこれは食いやすいから」

 

 思い出したのは、成己の飯だった。

 俺も、母さんと同じで具合が悪いと食欲が失せるタイプだ。でも、成己の飯なら食えたから、母さんもいけるんじゃねえかと思って。

 

 ――まあ、成己そっくりには作れなかったけど、不味くは無いはずだ……

 

 鍋をテーブルに置いて、ひと椀分よそう。

 

「ちょっとでも、食べた方が良いよ。いつも夏バテしてるだろ」

「……」

 

 お椀を差し出すと、母さんは半ば呆然とした様子で受け取った。

 ……食べてくれるだろうか。

 椀をひっくり返すのは、勘弁してほしいが。内心、恐々としながら見守っていると、母さんは大人しく匙を握り、食べ始めた。

 

「どう。食えそう?」

「……ええ」

「そっか」

 

 ホッと息を吐く。

 

「陽平ちゃん……あなた、お料理できたの?」

「それほどは。最近、始めたくらいかな」

「そう……」

 

 静かに食べすすんでいる母さんを、俺は少し意外な気持ちで眺めた。

 怒ったり、泣かれたりもしないなんて……これは余程弱っているのかもしれない。やがて、ゆっくりとひと椀をあけた母さんは、ふうと息を吐いた。

 

「おいしいわ。梅がさっぱりして、いいわね」

「あ、そうだろ? 俺もそれが好きなんだ」

 

 褒めて貰えて嬉しくなる。

 成己の飯は派手じゃないが、優しくてホッとする味だ。

 

――『陽平、食べられそう?』

 

 やわらかな声が甦ってきて、胸が苦しくなる。あの優しさを遠ざけてしまったなんて、悔やんでも悔やみきれなかった。

 

「……成己さんにならったの?」

 

 ふいに母さんが言う。

 

「えっ」

「やっぱり、そうなの」

 

 弾かれたように顔を上げた俺に、母さんは苦笑した。

 

「陽平ちゃんの顔見たら、何となくわかるわ。これでも親だもの」

「母さん……」

「お料理するなんて。誰かのために……そういう事が出来るようになったのね」

 

 しみじみと言われて、俺は居たたまれなくなる。

 

「違うんだ」

 

 成己と居た時に、料理なんかしたことない。

 全部、あいつに任せていた。俺はあの家で、何もしたことがなかった。

 あいつがいなくなって、寂しくて……今さら、あいつがしてくれていたことを、なぞっているだけだ。

 

「成己が、俺にしてくれたから。それだけなんだ」

 

 そう言うと、母さんは俯いた。


「そう。いい子だったのね。あの子……」

「……」


 返答に困り、眉を寄せた。

 別れた今になって、どうして成己を褒めるのかわからなくて。

 

「……ごめんね、陽平ちゃん」

「……なにが?」

 

 母さんを窺い見ると、落ち着かなさ気に指先を組み合わせている。

 

「……私、あなたの幸せを、壊しちゃったみたいね」

「……!」

「婚約破棄なんて駄目だって、止めるべきだったのに。だって……あの子のこと、別に疑ってなかったんだもの。いつも、私に気に入られようと必死で、あなたにべったりで……浮気なんてしそうにないんだから」

「えっ。なら、なんで……!」

 

 衝撃の告白に、動転する。

 俺が相談したとき、「野江と浮気してるに違いない」って、さんざん成己を詰ったのは、何だったんだ?

 

「じゃあ、なんで「浮気してる」なんて言ったんだ?!」

 

 思わず、詰るように口にしてしまった瞬間、はっとする。――母さんが、真っ赤に潤んだ目から涙をこぼしていた。 

 怯んだ途端、甲高い声が叫んだ。 


「だって、嫌いだったのよ! あなたもお父さんも、あの子を贔屓して……! 私は味方のいないこの家で、ずっと我慢してたのに! あの子はすぐに大事にされるんだと思ったら……耐えられなかったのッ」

「……そんな、母さんのことだって」

 

 気にかけている、そう言おうとしたのを察したのか、強く遮られた。

 

「わかってる! わかってるけど……悔しかったのよ。成己さんが来たら、私が大切にされる時間は、始まる前に終わってしまうんだって。それに、晶ちゃんが、あんな子だって思わなかった。みんなで幸せになれると思ったのに……」

 

 母さんは、両手で顔を覆って、さめざめと泣き始めた。もう、言葉が滅茶苦茶で、ずっと何を言っているのかわからない。

 だから、わかるのは――また俺が間違えたという事だけ。

 

 ――本当に、俺は何をやってんだ……大切なことを見ようともしないで、人任せに判断して……!

 

 母さんまで、俺に嘘をついていたことは、衝撃だった。

 だが――俺に母さんを責める権利はない。結局は、俺が考えなしに、大事なものを手放したんだから。


「……くそっ!」


 こんなに痛いのに、誰も責めることができない。

 

 ――成己……会いたい。お前に……

 

 母さんの嗚咽の響く部屋で、俺は焦げるように思った。

 



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