第250話【SIDE:綾人】

 椹木さんと、センターの医療棟に辿り着いたとき、成己はすでに検査室へと運ばれていた。

 宏章さんは、検査室の扉をじっと、穴が開くほど見つめていた。

 その横顔は、見たことがないほど張り詰めている。

 

 ――宏章さん……

 

 思わず立ち尽くしていると、椹木さんが宏章さんにそっと近づいた。

 

「宏章さん。奥様は……」

「……ああ、貴彦さん。成は検査中です。頭を打っているので……」

 

 声を潜めてやり取りする二人を、離れたところで眺める。どう声をかけていいのか、わからなくてさ。

 成己の無事が確認できるまでは……「ごめんなさい」も「大丈夫ですか」も、ただの自己弁護になるような気がして。

 

「……出かけるべきじゃなかった」

 

 宏章さんはきつく唇を結び、拳を握りしめている。

 

「せめて俺が、もっと早く帰っていれば。成に何かあったら……俺は」

「宏章さん、ご自分を責めないで下さい。奥様は大丈夫ですよ」

 

 苦し気に呻く宏章さんの肩を、椹木さんが励ますように掴む。

 オレは……自分が持ち込んだゴタゴタのせいで、こんなことになって。成己に何かあったらと思うと、心苦しくて死にそうだった。

 

 ――ごめん、成己。宏章さん……

 

 成己に駆け寄れないかわりに、閉ざされた検査室の扉をじっと見ていた。

 すると、遠くから職員さんのものと違う足音が、近づいて来る。そっちを見て、ハッとする。

 

「朝匡……」

 

 青ざめた顔の朝匡が、やって来る。一瞬、視線が絡み――それから、どちらからともなく逸らす。

 朝匡は、宏章さんの側へ行く。椹木さんは黙って、隣を空けてやっている。

 

「宏章」

「……兄貴」

 

 ピリ、と空気が張り詰める感覚に、知らず肌が粟立つ。

 宏章さんの表情は、逆光のせいかよくわからない。ただ、目だけがぼうと光っている。

 朝匡は、宏章さんの前に立った。

 

「宏章、すまな――」

 

 ガッ!

 

 最後まで言う前に、朝匡は吹っ飛んでいた。宏章さんが殴り飛ばしたのだと、拳を振り切った格好でわかった。

 つるつるした床に倒れ込んだ朝匡を、オレは信じられねえ思いで見た。

 

「ひ、宏章さ……」

「なんでだ」

 

 宏章さんは、低い声で問う。

 でかい体から発される威嚇のフェロモンは凄まじく、窒息しそうなほどだ。喉を押さえ咳き込むと、駆け寄ってきた椹木さんが、庇ってくれる。

 

「椹木、さん」

「……大丈夫です。ここに居て下さい」

 

 と、緊迫した面持ちで言い、ふたりを見ていた。

 宏章さんは、朝匡の胸倉をつかみ、強引に立たせると、怒りに燃える目で睨んだ。

 

「なんで、成を傷つけたんだ。あの子があんたに何をしたんだよ」

「それは……」

 

 青褪める朝匡に、宏章さんがごうと吼えた。

 

「文句があるなら、俺に言えばよかったろうが! なんで、成を……あの子は、あんたらの為にあれだけ尽くしたのに!!」

  

 固い拳が、唸りを上げて炸裂する。

 顔面をぶん殴られた朝匡は、唇から血を噴き出した。宏章さんは、すぐに拳を振り上げる。鈍い音がするたびに、鮮血が散った。

  

「よくも成を……自分だけが、人を責める権利を持ってると思ってんのか!」 

「……すまない。せめて、治療費を」

「黙れ! 金なんかどうだっていい!」

 

 鮮やかな赤色にゾッとする。朝匡は、反撃しようとはしなかった。

 ただ、じっと苦し気な顔で耐えている。――罰を受けているかのように。 

 

 ――朝匡の馬鹿野郎……そんなことで、罪滅ぼしになるわけねえ……!

 

 自業自得だって、目を逸らそうとするのに……胸がきりきりと痛む。痛めつけられてるあいつを見ているのが、辛くてたまらない。

 

「あ……!」

 

 鳩尾に重い一撃をくらい、朝匡が膝をつく。宏章さんはまだ拳を固めたままで、オレは戦慄した。

 

 ――朝匡!

 

 咄嗟に、体が動いていた。宏章さんの拳の盾になろうとか、考えたわけじゃない。ただ、見ていられなくて……

 

「――待ちなさい!」

「……椹木さん!?」

 

 目を見開く。椹木さんが、長い腕でオレを遮っていた。

 

「今、近づいてはいけません。アルファの諍いに巻き込まれたら、ただですまない!」

 

 椹木さんは、店でしたように、宏章さんの威嚇フェロモンを抑えていると言った。傍を離れると、ただでは済まないと説明される。

 言いたいことはわかるけど――オレは、頭を振った。

 

「でも! 止めないと、あいつ大怪我する……!」

「……仕方ないんです。彼は、オメガを傷つけられたのですから、あれは正当な報復です」

「そんな……!」

 

 椹木さんは、悲し気に目を伏せる。

 そんな――こんなことって、ない。オレだって、成己を殴った朝匡が百パー悪いって思ってるけど……でも。

 

「朝匡……!」

 

 オレは、椹木さんの腕を押しのけた。「綾人さん!」と呼ぶ声を背中に受けながら、朝匡に駆け寄る。

 

「朝匡っ!」

 

 そう叫んだとき――フェロモンに当てられ、オレは膝をつく。

 鬱蒼とした森に閉じ込められたような、惨い閉塞感。耳の奥からキーンと金属音がして、視界がまわる。

 

「ゲホッ……うえっ」

 

 息が出来なくて、喉をかきむしると、朝匡が「綾人」と叫んだ。心底心配そうな声に動揺していると、宏章さんがふと振り返る。

 

「……!」

 

 宏章さんの灰色の目は、真ん中で断ち割られるよう瞳孔が開いている。

 恐怖で、カタカタと全身が震えだす。

 

「宏章……!」

 

 朝匡が、叫んだとき――扉の開く音がした。

 

 

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