第249話【SIDE:綾人】

「――なあ、大丈夫?」

 

 後部座席に乗り込むと、オレはすぐに朝匡に尋ねた。

 反対側のドアに凭れるように座っていた朝匡が、低い声で答える。

 

「何のことだ」

「強がるなよ。痛み止め、切れてきたんじゃねえの」

「そんなにヤワじゃない」

 

 ふい、とそっぽを向く包帯男に、オレは「はあ」とため息をついた。

 

「そこ、強がるとこじゃ無くね。ほんとさあ……」

 

 バッグから新しい水を取り出し、ずいと差し出した。座席を滑るように詰め寄ったオレに、朝匡はちょっと息を飲んでいる。

 

「せめて、水分は摂っといた方がいいよ。脱水になったら、目も当てられない」

「……」

 

 朝匡は何も言わずに水を取ると、口をつけた。普段より、幾分ゆっくりした動きに、やっぱり弱っているらしいことを悟る。

 

 ――そりゃ、そうだよな。あれだけやられれば……

 

 顔面だけじゃなくて、スーツの下だって酷い打撲になってるはずだ。熱だって、けっこう出てるんだろう。 

 オレは、朝匡がこの怪我を負ったときのことを回想した――

 

 

 




 

 あの日――成己が意識を失ったあと、すぐに救急車がやって来た。

 一緒に乗り込んでいった宏章さんは、振り返りもしなかった。ただ、「成、成」って血相を変えて、片時も離れたくないみたいに、成己に呼びかけていて。

 

「成己……宏章さん」

 

 ぐったりしてる友達とか、普段飄々としてる人の、必死な姿とか。でかいサイレンの音も相まって、怖くてたまんなくてさ。

 サイレンが遠ざかってからも、しばらく呆然としていたんだけど。

 

「綾人さん、大丈夫ですか」

「あ……」

 

 椹木さんに声を掛けられて、我に返った。

 オレのせいで成己を酷い目に遭わせたのに、こんなとこで呆けてる場合じゃない。

 

「すみません、オレをセンターに連れてってください!」

 

 たしか、椹木さんは車で来たって言ってたはず。今の時間だとバスはないし、タクシーで向かうお金もない。

 縋るように腕を掴むと、椹木さんはすぐに頷いてくれる。

 

「わかりました。すぐに向かいましょう」

「ぁ……ありがとうございます!」

 

 頭を下げるオレの肩を叩き、椹木さんは「車を回してきます」と店を出て行く。オレも外で待っていようと、出て行きかけたとき、

 

「待て、綾人。車なら俺が出す」

 

 ずっと黙っていた朝匡が、急に声を上げた。驚いて立ち止まると、腕を掴まれる。

 

「綾人、お前は俺の車に乗れ」

「……は?」

 

 何言ってんだコイツ。

 呆然としているオレをよそに、朝匡は早口に言い募った。

 

「センターには俺も行く。わざわざ彼の車に乗らずとも――」

「ふざけんな!」

 

 オレは、目の前にいる馬鹿を、思いきり突き飛ばした。

 

「この期に及んで、何言ってんだよ!? あんたのせいで、成己が怪我したんだぞ!」

「……わかってる。だが、それとこれとは別だろうが! お前の安全が――」

「そんなの、今はどうでもいいんだって! あんたって人は、何でそう頑固なんだ!?」

「……綾人!」

 

 もどかしげに、腕を引き寄せられて暴れる。足を蹴り飛ばすと、強引に押さえ込まれて唇を奪われた。こんなときなのに――と目の前が真っ赤になる。

 

 ――成己を傷つけておいて!!

 

 頬を、打っ叩いてやろうとした。 

 なのに――朝匡の肌から、太陽と焼けた砂のような、激しい香りが溢れていた。テニスコートの上で何度も嗅いだ懐かしい匂いに、脳みそが揺らされる。

 

 ――フェロモンで懐柔しようとしてるんだ。

 

 怒りを飛び越して、絶望に近い感情が胸を占めた。

 

「やめろ……!」

 

 朝匡がわからない。

 こんなことをしてまで、オレを思い通りにしようとする。

 心配を通り越して、もはやエゴに近い言い分に、さんざん振り回されてきた。今までずっと、それは屈折した優しさなんだと、思おうとしてきた。今日だって、話し合うつもりだったけれど――

 

「……ッ」

 

 朝匡が、顔を離した。

 その唇からは血が滴っている。オレの唇からも同じように……でも、こっちは返り血のようなものだ。

 思いきり噛みついてやったんだから。

 

「綾人、お前」

「離せつってんだろ!」

 

 怒鳴りつけてやると、朝匡は僅かに目を瞠る。オレが抵抗したのが、そんなに意外なんだろうか。

 

 ――オメガはアルファに逆らえねえって、お前は思ってるもんな。


 乾いた笑いが漏れる。 

 ふざけやがって。体の両脇で、拳を強く握りしめた。

 

「大嫌いだ……あんたなんか」

「!」

 

 ごうごうと胸を焼く感情にそそのかされ、強い言葉が口をついて出る。すぐに怒鳴りつけてくるかと思ったのに、朝匡は何も言わなかった。

 

「……?」

 

 相手が大人しいと、たじろいでくるのがオレだ。自分の放った言葉の、思いがけない効果に後じさっていると……店の扉が開いた。

 

「綾人さん、野江さん! 行きましょう」

 

 息せききって飛び込んできた、椹木さんが言う。

 オレは我に返った。

 

「……離せよ」

 

 まだ掴まれたままだった腕を振り、椹木さんの所へ向かう。

 

「綾人さん、何かあったのですか」

「いえ。早く行きましょう!」

 

 もの言いたげな椹木さんを促し、店を出る。

 閉まるドアの隙間から、朝匡が立ち尽くしているのが見えた。

 

 

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