第245話

 もう一度、目を開いたときには、雨の音がしていた。

 

「ん……」

 

 白い天井と、消毒液の臭い。

 意識がはっきりするにつれ、センターの医務室に眠ってるんやって、気づく。

 カーテンからは、淡い光が漏れていた。――朝というには暗いのは、まだ早い時間やからなのか……激しい雨のせいなんやろうか?

 

 ――夢の続きかと、思った……

 

 体が痛かったせいか、ちょっと魘されていた気がする。……小さなころの夢を見て。

 ふと、横を見ると、宏ちゃんがベッドに突っ伏していた。至近距離にある綺麗な顔に、心臓がどきんと跳ねた。

 

「……宏ちゃん?」

 

 大きな手には、ぼくの手が包まれている。目をぱちりと瞬いて、じっと寝顔を見つめる。

 

 ――宏ちゃん、ずっと手を握ってくれてたん……

 

 そういえば、一度目が覚めた時……宏ちゃんが側に居てくれて。こうして、ぎゅっと手を握ってくれていた。この温もりが、悲しい夢の中にも伝わってきて……どれだけ心強かったか。

 泣き出しそうに揺れていた心が、甘く痛む。

 

 ――”あのとき”と、同じ……ううん。宏ちゃんはいつも、側に居てくれたよね。

  

 逆の手を伸ばして、眠る宏ちゃんの髪を撫でる。指先を流れていく髪の感触にさえ、胸が締め付けられるみたい。

 

「……ありがとう、宏ちゃん」

 

 出会ったときから変わらない、優しい幼馴染。

 沁みるような気持ちで、見つめていると――長い睫毛が震えた。薄暗がりの病室に灰色の目がひらく。

 

「成」

「宏ちゃん」

 

 スイッチのオンオフみたいに、宏ちゃんははっきりと目を覚ましていた。いつものことやけど、本当に眠ってたのかな? ってくらい寝起きが良いんよね。

 宏ちゃんは素早く――でもベッドを揺らさない様に身を起こす。

 

「成、目が覚めたんだな。どこか辛いところは」

「ううん。ちっとも。へいき――?」

 

 にっこりしようとして、頬がぎこちなく引き攣った。何やら固くしこっているような痛みが、顔の半分に乗っかっていて、目を白黒させてしまう。

 宏ちゃんは察してくれて、ぼくの肩を撫でた。

 

「あ……無理するな。兄貴の馬鹿のせいで、頬が腫れているんだ」

「はれてる?」

 

 それで、唇がぎこちないんや……と患部に触れてみて、あんまりな手触りに血の気が引く。ぱんぱんに腫れていて、目も開きにくい。

 ぼくは慌てて、自由な手でお布団を引っ張り上げて、顔をすっぽり覆った。

 

「……成?」

「あの……なんでもないん」

 

 不思議そうな宏ちゃんに、もごもごと言い訳する。

 

 ――腫れてるの、宏ちゃんに見られたくない。


 そ、そんなこと言ってる場合じゃないよね。ただでさえ心配かけてるんやから、しゃんとしなくちゃって、理性では思う。


 ――ばか。もともと、大層な顔でもないのに。なんで、こんなに怖がってるの……?


 うじうじと丸まっていると、するりと皮をむくように、布団を捲られてしまう。


「あっ」

「成。暑いから出ておいで」


 優しく諭されて、眉がへなりと下がった。

 寝汗でしっとりした肌に、空気が触れる。


「うう……」


 ぼくは咄嗟に顔を背けて、手のひらで覆う。


――『オメガのお顔は、大切に扱わないとね』


 涼子先生の優しい声が甦り、胸が苦しくなる。

 宏ちゃんに嫌がられたら、どうしよう。宏ちゃんは、こんなの気にしないって、わかってるのに……少しのマイナスも怖かった。


「……っ」

「成」


 すると、覆いかぶさってきた宏ちゃんに、抱きしめられる。ぼくが少しも痛くないように、って気遣いが伝わってくる……優しい抱擁。


「ひ、宏ちゃん……?」

「ごめん……辛い思いをさせてるな」


 耳の中に、静かな囁きが落とされる。


「つ、辛いなんて。ただ……」


 嫌じゃない? と聞きかけて、唇を結ぶ。そんなことを聞いてどうするんだろう。

 ……と、宏ちゃんが苦笑したのが伝わってきた。


「成を愛してる」


 真っ直ぐな声が、胸を打つ。

 大きな肩しか見えなくて、宏ちゃんがどんな顔してるのかわからない。でも、深い木々の香りに包まれて、心が落ち着きを取り戻してく。


 ――……嬉しい。


 ぼくは、そろそろと腕を伸ばして、広い背中を抱きしめる。


「宏ちゃん、ありがとう……大丈夫。心配かけて、ごめんなさい」


 自然と、そんな風に言えた。ぎゅっと抱きつくと、宏ちゃんはぼくに体重をかけないよう、抱き返してくれる。


「……でも、泣いてるだろう」

「これは……」


 涙に触れられて、頬が熱る。さんざん泣いて、人騒がせな自分が恥ずかしい。

 ぼくは、慌てて言った。


「ちがうの。これは、ただの余韻っていうか。……小さい頃の夢を見て」

「夢?」

「うん。十年前の……」


 背にしがみついたまま話すと、宏ちゃんは息を小さく飲んだ。


「成、お前……」

「けどねっ。こうして宏ちゃんが、居てくれるから。ぼく、平気なんよ」


 そう言うと、宏ちゃんの腕に力がこもった。


――ずっと、ずっと。宏ちゃんがいてくれれば、ぼくは怖くないから。


 腕の温かさに息を吐いた時、窓の外で眩い稲光が光る。

 激しさを増した雨の音を聞きながら……ぼくは、そっと目を閉じた。


 

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