第244話

『……成ちゃん』

 

 夢うつつに、名前を呼ばれていた。

 

『成ちゃん』

 

 ……やわらかな響き。

 ぼくを起こす為じゃなくて、眠りの中にあることを確かめるような。

 

 ――涼子先生。

 

「ぼく」は、お布団のなかで顔をほころばせた。まどろみのなかで、先生に名前を呼ばれるのが好きやった。

 ずっと見ているよって、言われてるような気がして。センターでは、小さなころから一人で眠る習慣を作るため、大人が添い寝をするということは無かった。

 でも、具合の悪いときは別でね。いつもは職員宿舎に帰る涼子先生が、お見舞いに来てくれて……寝付くまで側に居てくれたん。

 

 ――せんせい、ありがとう。

 

 側に居てくれるのが嬉しくて、「ぼく」はそっと目を開けた。

 

『え……?』

 

 涼子先生が、いない。

 さっきまで、側に居てくれたはずなのに。不思議に思いながら、僅かに身じろぐと、頭が痛む。

 そうだ。

 あのときは――小学校のフェンスから落ちて、頭を打ってしまったんだった。

 

『……せんせい、どこ?』

 

 真っ暗な病室に、非常灯の灯りだけがぽつんと光ってた。

 怪我をしていたせいか、とたんに心細くなって、「ぼく」はそろそろとベッドを下りる。

 

 そうや。それで――病室を出て、先生を探しに行った。

 医療棟を歩いて、話声のする部屋を見つけて……そっと覗き込んだんや。

 暗い廊下を進む幼い自分の背を俯瞰で見ながら、ぼくは思った。

 次の展開は、知っているから。

 

 ――せんせい?

 

 部屋を覗き込んで、「ぼく」は目を見開く。

 ……涼子先生は、ずらりと透明の箱の並ぶ部屋で、ひとつの箱を覗き込んでいた。

 

『――ええ子やねえ。もうすぐ、お母ちゃんと一緒に暮らせるからね……』

 

 これ以上ないほど優しく……愛おしそうに、囁く。

 ぼくの、聞いたことがない声やった。

 

 

 








 



 

「――!」

 

 引き攣れた息が漏れる音が、聞こえた。


「……っ、ぅ……」

 

 気管が燃えるようで、その音が自分の喉から出てるんやって、気づく。ひっ、ひっと絶え間なく喘鳴が漏れて、布団の中で胸が何度も弾んだ。

 

 ――苦しい。

 

 体が動くたび、ずきずきと頭が痛い。包帯の締め付ける感触と、消毒液の臭いが鮮明に迫っていた。


「けほっ……」


 唐突に、浮上した意識について行けず、ぼくは何度も咳き込んでしまう。 

 苦しくて、眉をしかめると――ふと、頬に温かなものが触れた。

 

「……成」

 

 低い、優しい声が、そっと鼓膜を震わせる。

 

 ――……ひろちゃん?

 

 頬を、優しく撫でられていた。――温かな手のひらの中に雫が伝う感触がして、ようやく自分が泣いていることに気づく。

 

「成……痛かったな」

「……ひっ……」

 

 喉の奥を、熱い塊がせり上げる。

 ぽろぽろと流れる涙を、熱い指にしきりに拭われていた。

  

「ごめんな。かわいそうに……」

 

 悔恨に満ちた声に、胸がきゅうと締め付けられてしまう。――宏ちゃんのせいじゃないのに。ぼくは、なんとか息を吸い込んだ。

 

 ――ごめんなさい。ぼくは、可哀そうなんかじゃない。宏ちゃんは、なんにも悪くないんやから……

 

 そう言おうとした。

 ……なのに、

 

「はなさないで」

 

 唇が、別の言葉を紡ぎだす。

 驚くぼくを無視して、幼い声は、身勝手なお願いを零し続けていた。

 

「ひろにいちゃんは、どこにも行かないで……ぼく、いい子にするから。ずっと、傍にいて……」

 

 ひどくしゃくりあげていて……不細工で、聞き苦しい声。

 

「ああ」

 

 けれど、宏ちゃんは、応えてくれた。

 大きな手に、シーツに投げ出していた手を取られて、しっかりと繋がれる。

 

「絶対に離さない……俺が一生、お前の側に居る」

 

 額の花に、誓うように口づけられ――目を開けると、涙にけぶる視界に、宏ちゃんが映る。

 宏ちゃんの姿が、学生服を纏っている少年と重なった。

 

 ――ひろにいちゃん……

 

 目を瞬くと、ぽろりと涙が押し出され、頬を伝っていく。雨のような雫を追うように、唇が押し当てられる。

 ……あたたかい。 

 深い安堵に包まれて、ぼくは再び眠りに落ちた。

 

 

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