第243話

 バシッ! 

 

 頬にひどい衝撃を受け、体が宙に浮く。

 ボールのように飛ばされて、カウンターに並んだ椅子に、背中から突っ込んでしまった。

 

「うっ……!」

 

 後頭部を打ちつけて、くわんと目の前で星が回った。ばらばらに倒れた椅子の中でぐったり倒れていると、だれか慌ただしく駆け寄ってくる。

 

「成己!」

 

 綾人や。

 傍らにしゃがみ込む気配。泣きそうな声でぼくを呼んで、肩をゆすぶられる。

 

「揺すったらいけません、綾人さん! 頭を打っているようですから」

「す、すみません」

 

 椹木さんらしき人の声もする。「大丈夫ですか?」と何度も尋ねてる。

 

 ――返事をしなきゃ……

 

 そう思うのに、頭がぼうっとしてうまく声が出なかった。打ち付けたところが、ズキズキ痛む。

 目を開けているはずなのに、なんだか視界が狭い。

 ぼくを覗き込む二人の顔が、くるくる回って……意識が遠くなる。

 

「……」

 

『……しっかり!』

 

 頬に触れる手が、冷たい。ううん、ぼくが熱いのかも。

 そういえば、顔を殴られたのは初めて。ずっと大切にされてきたから……そう思うと、なんだか貴重な気もする。

 

『成己!』

 

 綾人と、椹木さんがぼくを呼ぶ声が、遠い。

「救急車を呼びます」と、声がして焦った。そんな、たいしたことじゃないからって、伝えようとして、上手く行かなくて。

 頬に、ぱらぱらと熱い雫が降りかかる。……綾人のすすり泣く声で、涙だと気付いた。

 胸がいたくなる。

 

 ――ごめんなさい、心配かけて。

 

 綾人を守るなんて、言っておいて――こんなに泣かせちゃった。 

 ぼくが、ちゃんと出来なかったせいなのに。

 せっかく、お兄さんが話しに来てくれたのに、椹木さんまで巻き込んで――こんな大ごとにしてしまった。

 

 ――ごめんなさい……

 

 痛みに熱る瞼が、じわりと滲む気がした。

 すると、さ迷う意識のなかで……鮮やかな木々の香りがした。森の中にいるような錯覚を起こすほどの、芳しい香り。

 そして――つられるように、眼が覚めた。




 

「……成!」

 

 近くに、宏ちゃんの必死な顔があった。灰色がかった不思議な瞳に、めいっぱいの真心を乗せて、見つめられている。

 

「……ぁ」

「成。成……気が付いたか。俺が、解るか?」

 

 宏ちゃんの大きな手が、ぼくの肩を優しく撫でた。じわじわとぬくもりが伝わって、あんなに不自由やった喉から、吐息が零れてく。

 それから、頭が現実を訴えるように、がんがんと痛みだした。

 

「……痛っ」

「成っ……痛かったな。少し堪えてくれ」

 

 宏ちゃんは慈しむように囁いて、ぼくの頭に冷たいものを押し当てた。――痛みが和らいで、寄せていた眉が解ける。

 気が付いてみると――ぼくは、うさぎやの床に横たわっていて……意識を失ったのは一瞬のことやったみたい。

 でも、宏ちゃんがいる。

 そのことに……心の底から安堵が湧きおこって、涙がぽろぽろ溢れてくる。

 

「……ひろ、ちゃ……」

「成……怖い思いをしたな。もう大丈夫だよ」

「……っ」

「遅くなってすまない」

 

 綿毛が触れるより優しく、涙を拭われた。

 

 ――宏ちゃん……!

 

 思い出す……安心しても、胸がいたくなるんやって。宏ちゃんがいれば、もう何も心配いらない。

 失敗も、罪悪感も遠のいて――ただ怪我が痛いことだけに泣く、子供になった気分やった。

 ぼくは、鉛みたいに重い腕を上げて、宏ちゃんの手に触れた。

 

「……だ、いじょうぶ……」

 

 なんとか、それだけ伝えると――また、意識が遠くなった。



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